

理蕃政策とは
台湾の原住民に対する政策
理蕃政策が上手くいったと思っていた台湾総督府。そこに原住民蜂起という信じられない一報が入った。被害者136名という凄惨な事件は更なる悲劇の幕開けに過ぎなかった。
今回のポイント
✅理蕃政策の変遷
✅霧社事件の概要
✅二度あった霧社事件

理蕃政策と霧社事件
理蕃政策の変遷
清朝時代の理蕃政策
当初、清朝にとって台湾併合の目的とは『敵の手に渡るのを防ぐため』だけのものであった。漢人の不穏分子が原住民と結託する事を恐れた清朝は、原住民と漢人の居住地域を明確化するために土牛紅線と呼ばれる境界線を引いた。これが官による理蕃政策の始まりであろう。

-
-
台湾史入門⑤清朝時代Ⅰ‐超消極的台湾経営‐
続きを見る
それから190年ほどが経ち、迫りくる欧米列強や日本の台湾出征などを受け、ようやく重い腰を上げ積極経営に乗り出した清朝。それに伴い理蕃政策も嘗ての『不穏分子と結託したり、漢人を襲わなければそれで良い』という消極的なものから、武力で制圧しつつ、原住民居住区に番学という学校を作るなどアメとムチを使い分けた積極的なものへと変遷していった。

-
-
台湾史入門⑪清朝時代Ⅶ-積極経営に転じた清朝-
続きを見る
日本統治時代初期の理蕃政策
領台当初の理蕃政策は以下の3点の理由から頭目(原住民集落のリーダー)への飲食接待を中心とした極力刺激を与えず接触もしない消極的なものだった。
初期理蕃政策が消極的だった理由
①平地での漢人による反乱鎮圧に集中
②樟脳以外の山地資源の有用性を理解していなかった
③上記2つの理由による原住民並びに居住区に対する情報不足

日本統治時代中期の理蕃政策
しかし中期になると理蕃政策は従来の懐柔策から武力での制圧へと一転した。これには以下の理由が挙げられる。
理蕃政策が武力制圧に転換した理由
①平地での漢人による反乱がほぼ平定した
②山地資源の有用性を理解し始めた

具体的には隘勇線と呼ばれる防御ラインより内側に原住民を閉じ込め塩などの交易を断ち兵糧攻めにする。また隘勇線を徐々に前身させる事により、原住民をより標高が高く険しい山地に追い込む。こうして降伏した原住民居住区(以下『蕃社』)では帰順式を行い銃器を押収する。押収された銃器は警察官の管理におかれ、狩猟の際には許可の下で貸し出されることになった。
また理蕃警察と呼ばれる独自の警察が置かれ、更には警務局理蕃課に監察、整備、受産、教育、衛生、交易、蕃地開発の6つの係が設置され蕃地への直接的な支配へと舵を切ったのだった。
そしてもう一つ重要な施策として稲作の推奨があった。こうして武力で脅しながら狩猟、焼き畑という生業に変化を与え、生活そのものを変化させる事で従来の懐柔策には見られなかった直接支配を実現させたのであった。

理蕃政策の変遷
①清朝時代前期
土牛紅線と呼ばれる境界線を引いただけの消極的なもの
②清朝時代後期
アメとムチを使い分けた積極的なもの
③日本統治時代前期
極力刺激を与えない消極的なもの
④日本統治時代中期1
アメとムチを使い分けた積極的なもの
⑤日本統治時代中期2
生活習慣そのものを変えて直接支配に乗り出す



-
-
台湾史入門⑯日本統治時代Ⅳ-佐久間左馬太と理蕃政策-
続きを見る
理蕃政策の『模範的地区』としての霧社
当時の霧社には日本人36戸157人、台湾人23戸111人が居住し、小学校、公学校、郵便局、公医療養所、旅館、雑貨屋などがあった。またその周辺にはセデック族の蕃社が12社、総計507戸1178人が住んでおり、各蕃社には警察官駐在所が設置され、また蕃地療養所が2か所と蕃童教育所が2か所設けられていた。
そして霧社の原住民のうち95%は簡単な日本語で日本人と話せた。これは当時の平地漢人の25%と比較しても驚異的な数字であった。一方で駐在所の日本人警察官も原住民の言葉を習得していた。
このように霧社は総督府から見ても理想的なモデル地区を形成しており、かの森永製菓創業者、森永太一郎も霧社を訪れた際に、

と日帰りにした事を後悔し、また

と大絶賛していたほどだったのだ。
霧社事件の概要
第一次霧社事件
このように一見すると順風満帆に見えた理想郷で1930年10月27日未明、マヘボ社(一つの集落)近くの山林造園地に駐在する吉村巡査と、もう一名が襲われ首を刈られた。続いてマヘボ駐在の杉浦巡査も襲われ首を刈られた。これが事件の発端となったのだ。


犯行に及んだのはマヘボ社頭目モーナ・ル-ダオの長男、タダオ・モーナともう一名だった。

出典:中央廣播電台
タダオ・モーナらは更にマヘボ社駐在の杉浦巡査を襲い、その首も刈った。すべて寝込みを襲う形だった。


出草とは?
首狩りの事。通過儀礼の一つでもあり、当時の原住民男性は異民族や敵部落を襲い首を持って帰って来て初めて一人前の成人男性だと認められた。
息子であるタダオ・モーナが駐在所を襲うのに呼応する形で、頭目モーナ・ル-ダオはマヘボ社を中心とした6つの社から成る蜂起加担社衆約300人を率い霧社へ向かう途中、3つの駐在所を襲い家族もろとも皆殺しにした。
一方、霧社の公学校では運動会が催されていた。運動場には児童らを中心に各教職員や児童の家族、周辺の住民らが一堂に会していて、ちょうど国旗掲揚式が挙行されようとしていた。
公学校とは?
日本統治時代にあった台湾人の子弟向けの教育機関。

-
-
台湾史入門⑱日本統治時代Ⅵ-台湾人エリートの誕生-
続きを見る
そこに突然、武装した原住民が流れ込んだ。時間は8時5分ごろだった。蕃刀を振りかざし、殺戮を始める原住民に、逃げ惑う運動会の参加者。通常、原住民による出草の対象は成人男性のみだったが、今回は女子供、見境なく日本人であれば手当たり次第に殺していき、その阿鼻叫喚は霧社全体をも包んでいった。霧社は理想郷から瞬く間に修羅の場と化したのだった。
この事件により134名の児童を含む日本人、そして2名の台湾人が殺害され、215名が重軽傷を負い、うち2名は救出後に死亡した。また12か所の駐在所が襲われ、銃器180挺と弾丸23000発が奪われた。


事件の二日後の29日には先遣隊が霧社に到着、そしてその翌日30日には陸軍も霧社に到着し、31日には総攻撃が開始された。銃器180挺を奪った屈強な原住民たちも最新の武器を装備した陸軍の近代戦法には全く歯が立たず、戦いは山中でのゲリラ戦へと移ったが、ここでも日本軍は飛行機を投入し爆撃を開始。三週間に及んだ討伐戦は日本軍の勝利に終わり、結果として蜂起蕃各社の総人口約1236人のうち、戦死者が256名、味方蕃(後述)による戦死者が87名、縊死者が295名、切腹自害者が1名、俘虜になったものが265名、その他は投降したが、なかには死体が確認できなかったものや逃走した者もいた。


また首謀者であるマヘボ社頭目モーナ・ルーダオと息子のタダオ・モーナ、そして事件のきっかけの一人と言われるピホ・サッポなどは、いずれも死体が確認された。




唯一の切腹自害者 花岡一郎
縊死者が多かった中、唯一、切腹という方法で自死を選んだ者がいた。名を花岡一郎という。花岡一郎、花岡二郎は共に霧社のホーゴー社出身の原住民で一郎は台中師範学校を出て巡査になり、二郎は高等小学校を出た後に巡査の一つ下の警手となった。まさに模範的地区である霧社が生んだ模範的原住民であったのだ。

出典:典藏臺灣

一郎二郎の両名は霧社で蜂起が起きた後、遺書を書き壁に貼り付けた。以下がその原文だ。
花岡兩。
我等は此の世を去らねばならぬ。蕃人の公憤は出役が多い為に、こんな事件になりました。我等も蕃人達に捕われ、如何する事も出来ません。昭和五年拾月貳拾七日午前九時。
蕃人は各方面に守つて居ますから、郡守以下職員全部公学校方面に死せり。

日本の警察官として同族の蜂起を止められなかったという悔やみ、そして同族が日本の警察や軍隊に討伐される悲しみ、二人にしか理解できない二重の苦しみは我々には到底想像もつかないものだったであろう。
第二霧社事件
ここまでが霧社事件の概要なのだが、悲劇はこれに終わらなかった。というのも討伐終了後に味方蕃が保護蕃を襲撃し、非武装の191人を一方的に殺害するという事件が起きたのだ。これを第二霧社事件と呼ぶ。


日本側は討伐の際、タウツア社の原住民を自軍に参加させた。そしてこのタウツア社の事を『味方蕃』と呼んだ。


そして蜂起した原住民の中には投降した者も多くいたのは前述の通りだが、彼らは霧社の一角に『保護蕃』として収容された。味方蕃がこれを襲う形になったのだ。


まとめ
日本の台湾統治も35年の月日が経ち、闘争の手段が教育やアート、政治という謂わば非武装且つ間接的、平和的な形がとられるようになっていた日本統治時代中期、二度にわたり発生した霧社事件は、蜂起した原住民、討伐を行なった日本人、その討伐を応援する形で同族である原住民を襲った味方蕃。それぞれが不文律を破る形となった事により生み出した多くの女子供の被害者、そして花岡一郎二郎のように板挟みになった者。関与した全ての人間を陥れた台湾史上類を見ない大悲劇となったのであった。
今回のまとめ
✅理蕃政策も中期に入り、霧社はその成果としての模範的地区であった
✅その霧社で起きた凄惨な事件は、統治側にとっては寝耳に水の事であった
✅そして霧社事件は二度起きた

