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台湾史入門

台湾史入門③‐オランダ統治時代‐

大航海時代に突如として貿易の要所となった台湾。それは華々しい世界史デビューであると共に、元々この地に住んでいた原住民(先住民族)にとっては長きに渡り続く外来政権による統治の歴史の幕開けでもあったのだ。

今日のポイント

✔オランダが原住民にもたらしたもの
✔漢民族の移入と開墾

オランダの台湾統治

ゼーランディア城とプロヴィンシャ城の建設

澎湖という小さく資源のない島の代わりに台湾という肥沃な大地を手に入れたオランダは大員(Tayouan、今の安平)にゼーランディア城(今の安平古堡)という城塞を築いた。

因みにこの大員は台員や台湾とも書かれ、後に台湾島全体を指す呼称になったのだ。次の画像は現在の安平古堡。その後城砦は完全に姿を消すこととなったが、一部当時のレンガ壁は現存している。

画像引用元:民報

次に紹介するのは17世紀に描かれた当時のゼーランディア城と安平の風景だ。ご覧の通り当時安平は半島だったのだが、今は湾岸に土が堆積し陸地へと変貌を遂げている。

17世紀にオランダ人が描いたゼーランディア城周辺 画像引用元:alternatehistory.com

ゼーランディア城構築に着手した翌年には、その対岸にプロヴィンシャ城(現在の赤崁樓)の構築に着手した。この赤崁樓も安平古堡同様、当時の建物は残っていないものの、城壁は一部現存している。

この二つの城塞だがゼーランディア城は対外貿易の為、そしてプロヴィンシャ城は東インド会社の事務所や宿舎、倉庫として利用されていた。

当時の位置関係。中央下部に安平古堡(ゼーランディア城)その対岸に赤崁樓(プロヴィンシャ城)が描かれている。尚これは西側から見た図なので実際の位置関係はこの画像を右に90度倒す必要がある。そして安平と赤崁の間の湾だが、上述の通り現在は陸地になっている。

画像引用元:轉角心視野
taka
この安平古堡と赤崁樓は台南の観光スポットなので、南台湾に来た際には是非足を運んでみよう
アイン
赤崁樓は夜が綺麗でおすすめだよー
画像引用元:台南旅遊網

漢人移民の募集

台湾と言う新天地を経営していく上で何より必要だったのは人手だった。後述するが米や甘藷の栽培などを進める上で原住民だけでは人手が足りず、資金や牛の提供などの優遇策で中国沿岸の漢人を大量に呼び寄せたのだった。オランダ統治時代に渡台した漢人は、およそ25000人から最大で40000人に上るとされた。

この数を見て少ないと感じるかも知れないが、当時の原住民の人口、つまり台湾に住む人たちの人口が全島で約13万人ぐらいだと推定されているので、相当数の漢人が渡台してきたことになる。この移民の促進は台湾に於ける漢人社会形成を促す事となった。

taka
当時は戸籍制度などもなかったから、人口はあくまでも推定になるよ

原住民統治

突如やって来て統治を始めたオランダ人。一方で元々の居住者である原住民だが土地所有という概念こそなかったものの、土地はみんなのものだと考えていたので、オランダ人たちが土地を占拠していくのを快くは思っていない。

何度も武装蜂起が起こったものの、相手は最新鋭の武器を持ったオランダ人。加えて原住民たちは部族はおろか、部落(一般的には「社」と言われる)毎にバラバラだったので太刀打ちが出来ず、やがてオランダ支配体制に組み込まれていった。

当時のヨーロッパ諸国は植民地統治に長けていて、極力自分たちの手を煩わせない方法を取った。例えば帰順した原住民部落に反抗的な原住民部落を襲わせたりだ

また漢人の商人に各部落との交易を独占させた。漢人たちには布、塩、鉄器などを原住民の鹿皮、鹿肉等と交換させ、オランダ当局に一定の税を納めさせたのだった。

布教活動

『片手に剣、片手に聖書』とはオランダ人の植民地統治を表した言葉だ。武力で原住民を征服する一方で、布教を目的とする教化活動も積極的に行っていった。その際に宣教師たちによって開発されたのが新港文字だ。これは平埔族の言語をアルファベットで表したもので、オランダ人が去った後も平埔族の間で150年間ほど使用されてきた。

オランダ語と新港文字による二言語対照の『マタイによる福音書』
画像引用元:wikipedia
新港社の原住民と漢人とが取り交わした土地契約書。漢文と新港文字で書かれている。
画像引用元:wikipedia
taka
原住民は文字を持っていなかったから、その後も移入する漢人たちとの土地契約などで、この新港文字を使用し続けたんだよ

台湾は金の生る木

重要な中継地点としての台湾

先の記事でも紹介した通りオランダは当初、明と日本との間の貿易に食い込む為の補給拠点が欲しかったのだが、棚ぼた的に肥沃な台湾を手に入れた事で単に補給拠点としてでなく、重要な中継貿易の拠点として台湾を植民地経営していく事になった

具体的には台湾でとれる砂糖や米、鹿の肉や皮を日本や明に輸出し、日本からは銀を、明からは絹織物や陶磁器を手に入れ、それを本国で売ることにより莫大な富を築いたのだ。以下は17世紀頃の台湾を中心とした明、日本、東南アジア諸国の中継貿易をまとめた図である。

※黒字は原産地品、赤字は中継貿易による貿易品を表す

暴利を貪るオランダ

中継貿易はオランダに莫大な利益をもたらしたが、一方で農業開発に力を注いだ。土地を開発し漢人移民に貸与して1収穫物の5%から10%を小作料として徴収したのだった。

またそれ以外にも鹿の捕獲器具など生活や生産の至る所に税金をかけたのだった。台湾はオランダにとって正に金の生る木だったのだ。

ライバルの出現

スペインの触手

そんな金の生る木を他の国が見過ごすわけもない。当時の最強国スペインも日本と明との貿易を求め台湾北部に拠点を置いた。この時建築されたのがサン・ドミンゴ城(今の紅毛城)だ。

その後スペインは北部での支配領域を拡大していくも、①日本の鎖国政策による対日貿易の廃止 ②豊潤な南部を支配するオランダの圧力と経済格差 ③フィリピン南部でのイスラム勢力の武装蜂起を制圧するための人員配置 といった理由から台湾を手放す事になった。なおサン・ドミンゴ城は台湾撤退の際に取り壊されたが、その後オランダ人によって再建され、台湾に現存する最古の建築物となった。

画像引用元:Gloupes
taka
『紅毛』とはオランダ人の事を指すんだよ
アイン
それにしても日本の鎖国政策が台湾統治にも影響してたんやね
taka
台湾と日本は距離的な事もあり、なにかと影響を及ぼし合ってる。それはそうと現在では『鎖国』という言葉はあまり使われていない。江戸時代を通してオランダ、朝鮮、琉球、蝦夷などと貿易や交流を続けていたという理由からだ。

以上のように台湾で我が世の春を謳歌するオランダだったが、お隣の国では大きな変化が起こり、やがてそれはオランダや台湾にも波及してくる事となったのだが、それは次の記事にて詳しく紹介したい。

オランダは最後まで台湾全土を統治はできなかったが、その統治範囲は南部はもとより北部や中部、そして中央山脈を迂回した形で東部にまで及び、推計では台湾原住民の約50%を支配下に納めていたのだった。

今日のまとめ

✔オランダ統治時代に漢人の移入が爆発的に増えた。
✔原住民に文字とキリスト教をもたらした。

taka
今でも原住民の大多数がキリスト教を信仰しているんだよ

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