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台湾史入門

台湾史入門④鄭氏政権時代‐江戸時代に大人気の日中ハーフ‐

交錯する日本と台湾の歴史

台湾と日本は物理的な近さもあって常に影響を及ぼし合ってきた。スペインの台湾北部統治が続かなかった理由の一つが日本との貿易から締め出されたからで、一方のオランダは長崎の平戸にて引き続き貿易を続けていた(その後、同じ長崎の出島に移転)今回のお話は、その平戸からスタートする。

今回のポイント

✅明王朝とオランダ統治時代の終焉
✅漢民族の大量移入
✅人形浄瑠璃や歌舞伎でも演じられた台湾の英雄

 

台湾のヒーロー鄭成功

福松の生い立ちと当時の情勢

大海賊鄭芝龍とその息子福松

後に東アジア海域に一大勢力を誇る事になった鄭芝龍。彼は18歳の頃、長崎の平戸に入港し平戸藩士の娘、田川マツと結婚し子供をもうけた。名前を福松という。貿易商だった鄭芝龍は拠点を平戸から台湾北部へと移したが、福松は母親や弟と7歳まで平戸で過ごした。

アイン
海賊王で貿易商?
taka
この当時は密貿易も多く、貿易商は武装して海賊化してたんだよー

明王朝の終焉

オランダ東インド会社が台湾に於いて濡れ手に粟で暴利を貪っていた頃、お隣の中国では大変動が起きていた。明王朝が異民族である満州族の侵攻を受けて崩壊寸前だったのだ。満州族は清王朝(以下清)を設立、尚も明の残党に攻撃を続けた。風前の灯火だった明は大海賊にのし上がった鄭芝龍の軍事力と資金力を当てにして援軍を要請、その頃既に息子福松も母親や幼い弟と父の故郷である福建に移り住んでいた。

しかし、その後も戦いは劣勢が続き、南京を攻略された明は福建に逃れた。その際21歳になっていた福松は隆武帝に会った際に…

隆武帝
ワシにべっぴんな娘がおったら、お前に嫁がせるんやけどなぁ。そうや!お前にワシの姓『朱』を授けるわ。あと福松って名前ダサいから『成功』に変えろや

こうして『田川福松』は『朱成功』と名前を変えた。しかし成功は『朱』という国姓を名乗るのは恐れ多いと、父親の姓である『鄭』を名乗り続けた。鄭成功の誕生である。

taka
隆武帝から国姓をもらった鄭成功は、その後『国姓爺』と呼ばれることになったよ
アイン
国姓爺?何か聞いた事あるぞ?

国姓とは?

儒教の国で見られる風習。一般的には君主の姓を以って国姓とする。有名なところでは李氏朝鮮の李氏や清の愛新覚羅氏など。

国姓爺、立ち上がる!

なおも攻撃の手を緩めない清は明の中核である鄭芝龍を懐柔する策をとった。息子福松の反対を押し切り清に寝返ったが、目論見は外れ北京に幽閉され、母マツも自害。鄭成功は学問の神様を祀る孔子廟の前で「これからは書を捨て武人として生き、国と両親の仇を討ちます」と土下座し許しを請うたというエピソードがある。ここから国姓爺・鄭成功の反撃開始である。

国姓爺、金門に撤退!

アイン
立ち上がって反撃開始してる割にはイキナリ負けてるやんけ…

とはいうものの清は強く鄭成功は金門と厦門の二つの島に撤退して防戦一方を強いられていた。その頃とある使者が鄭成功を訪ねてきた。何斌という人物だ。オランダの台湾統治に異を唱える漢人たちが武装蜂起した際にも何斌は一切動かずオランダ統治機構の信頼を得ていた人物だったが、どえらい手土産を持って鄭成功を訪ねたのだった。それは台南の台江水域の海図だった。それが何を意味するかは後に回すが、何斌は鄭成功にこう進言した。

何斌
まずは澎湖島を占拠して、一気にプロヴィンシャ城を攻め落としちゃいましょう

さてここで一度、厦門、金門、澎湖島と台湾の位置を確認してみよう。

taka
因みに現在では厦門→中国領。金門→台湾領で目と鼻の先にあるんだよー

こうして澎湖を占拠した鄭成功だったが、オランダ統治機構は高を括っていた。くだんの台江水域の問題だ。この水域はとにかく海流が複雑で普通には入ってこれない。かと言って正面突破しようにもゼーランディア城ではオランダ最新鋭の武器が待ち構えている。ここでオランダ側にとって誤算だったのが海図の存在だった。鄭成功軍はゼーランディア城を迂回するコースを取り、直接プロヴィンシャ城を攻撃し占拠し、その後ゼーランディア城を包囲した。また上陸の際には移住民である漢人たちの手伝いがあった。それほどオランダ政権に不満を持つ人たちが多かったということだ。

鄭成功の進軍ルート。右の赤丸『赤崁城』がプロヴィンシャ城(赤崁樓)、左の『臺灣城』がゼーランディア城(安平古堡)
画像引用元:宜蘭縣教育支援平台

流石にゼーランディア城の守りは固かったものの、包囲され持久戦に持ち込まれた結果、オランダは台湾からの撤退を決めたのだった。

ゼーランディア城の降伏の様子
画像引用元:ウィキペディア

漢人政権の樹立

こうして台湾統治はオランダから鄭成功率いる漢人へと移譲された。結論から言うと鄭政権は長くは続かなかった。鄭成功は台湾を手中に収めて一年後に39歳の若さでその波乱の生涯に幕を閉じることとなり、その後、孫の代まで三代政権が続いたものの跡目争いのゴタゴタが多く、最後は清に台湾を明け渡す事になったのだ。然しながら鄭政権が台湾に残した爪痕は大きい。以下いくつか紹介したい。

漢人の移入

前回の記事でも紹介したが、オランダ統治時代の原住民の人口が約13万人であったのに対し漢人の人口は2万から最大で5万人ぐらいだったとされる。それが僅か23年間の鄭氏政権時代には原住民と漢人の人口が匹敵、或いは逆転したと言われているので、如何に漢人移入の数が多かったか分かるだろう。これは鄭成功軍並びにその家族合わせて3万人いたのに加え、清が鄭成功対策として海禁政策(いわゆる貿易禁止)を強く推し進めたことから、却って中国沿岸部の人たちの生活が厳しくなり、台湾へ移住する結果を招いた為だった。

台湾の開墾

人口が一気に増加した台湾では食糧確保が喫緊の課題だった。北は淡水や基隆、南は恒春まで台湾の西側が次々に開拓されたのだった。そして開拓の一方、財源確保のために台湾住民からの徴税にも腐心したが、文字通り生活の全てに課税したので、住民たちはその重税に苦しむことになった。

画像引用元:旅行のともZENTECH
taka
さあ、基隆と恒春を探してみよう!
アイン
画像編集するのが面倒やったんやな…

鄭成功伝説

実際に台湾を統治したのは僅か1年余りだったものの、鄭成功は台湾の地に数多くの伝説を残している。ここでは幾つかの代表的なものを紹介しよう。

剣潭伝説

ある池には蛟(ミズチ:伝説の化け物で竜類)が住んでいて住民を困らせていた。ある日鄭成功が通りかかった際に蛟と遭遇。成功は宝剣を投げつけ退治したというもの。以来この地は剣で静まった池という意味を込め『剣潭』と呼ばれている。

宜蘭の亀山島

噶瑪蘭に進軍した際、太平洋上からガメラのような怪獣が出没。鄭成功は慌てず伝説の大砲『龍碽』(ドラゴン・ハンマー)の照準を定め発射、見事この怪獣を倒した。今の亀山島はその際に倒したガメラなのだ。

亀山島がまだ元気だった頃
画像引用元:シネマトゥデイ
鄭成功に倒された後
画像引用元:宜蘭勁好玩
アイン
なんかふざけてない?

taka
因みに噶瑪蘭(カバラン)とは、この一帯に住む原住民カヴァラン族の言葉で宜蘭や花蓮を指す地名。最近ではカバラン・ウイスキーが有名だよ。(美味しいけどチョットお高め)

鶯歌石

300年ほど前、鶯歌一帯に巨大な2つの岩が出現した。1つはオウムそっくりで、もう1つは鳶そっくりだった。この2つの巨石は時に毒霧を吐き村民たちを困らせていた。鄭成功軍がここを通りかかった際にも毒霧によって部隊は立ち往生し困らされた。そこで鄭成功は例の武器、ドラゴンハンマーを発射。見事オウムの頭と鳶のくちばしを吹っ飛ばした。それ以来この2つの怪物は悪さをしなくなった。今の鶯歌石と鳶山である。

鶯歌石

鳶山

怪物退治以外にも北のヤモリは鳴かないが南のヤモリが鳴く理由に鄭成功が絡んでいたり、台南南部でよく食べられているサバヒー(中国語名:虱目魚 英語名:ミルクフィッシュ)が鄭成功に関連していたり、とかく話題には事欠かない男。それが鄭成功なのだ。台湾にいた時間は僅か1年余りだが、鄭成功は今でも台湾人の心に住み続けているのである。

国姓爺合戦

これは伝説ではないのだが、鄭成功の活躍は近松門左衛門の『国姓爺合戦』にて描かれた事によって、多くの日本人が知る事となった。国姓爺合戦はあまりにも人気を博し、その後は歌舞伎にもなった。鄭成功という名前を知らない人でも国姓爺なら聞いた事がある人も多いであろう。

国姓爺合戦
画像引用元:世界の歴史マップ

今回のまとめ

✅鄭成功によりオランダが台湾を追い出された。
✅清の海禁政策により生活の苦しくなった沿岸部の人たちが台湾に押し寄せ、遂に漢人人口は原住民より多くなった。
✅鄭成功の活躍は日本でも『国姓爺合戦』として紹介され人気を博した。

taka
今でも鄭成功を祀った廟や、その名を冠した道や大学なんかもあるよ

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