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台湾史入門

台湾史入門⑤清朝時代Ⅰ‐超消極的台湾経営‐

taka
今日から清朝時代に突入だよ。この頃に今の台湾文化の原型が作られたといっても過言じゃないよ
アイン
犬にもわかるように説明してや―
taka
できるだけ簡単に紹介するね

跡目争いのゴタゴタにつけ込み清は鄭政権の切り崩しを図った。結果として23年という短期政権に終わった鄭政権。

一方の清だが台湾を手に入れたものの手放さそうとさえしていた。そして212年もの長きに及ぶ台湾統治の間、1874年までの約190年間は「仕方なく」台湾を経営していたのだ。今回は清のそんな消極的な台湾経営についてのお話。

taka
過去から現在までの間、5つの外来政権が台湾を統治してきたけど、清の212年というのが最長になるよ

今回のポイント

✅清が渋々台湾を領有した理由
✅消極的な台湾経営

 

消極的な台湾経営

清朝による台湾統治の経緯

施琅による台湾攻略

少し話を遡るが鄭氏政権末期の頃、清朝は台湾攻略にあたり、鄭成功に仕えていた施琅を抜擢し全権を委ねた。この施琅だが以前、何斌が鄭成功に台湾進攻を進言した際に大反対し、鄭成功の逆鱗に触れ死罪を命じられ逃亡し清朝に保護を求めた過去があった。その結果、施琅の家族は鄭成功に殺されることになった。これは施琅にとっては悲願の復讐戦だったのだ。

何斌
ワシやで、ワシ。みんな覚えてる~?忘れた人は過去記事でワシの活躍ぶりを思い出してや~
参考記事
台湾史入門④鄭氏政権時代‐江戸時代に大人気の日中ハーフ‐

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台湾放棄論

施琅の巧みな切り崩し戦術により鄭成功の孫にあたる鄭克塽は降伏、これにより23年続いた鄭氏政権の幕は閉じたのだが、清は元々鬱陶しい鄭氏政権を叩きたかっただけで辺境の地台湾を保有する意思はなかった。そこで浮かび上がってきたのが台湾放棄論だった。

アイン
もらえるもんは、もらっときや
康熙皇帝
遠い島なんていらんねん。反抗してくる奴だけ本土に帰還させたらそれでええねん

施琅の反論

澎湖島だけ守っておけば良いとする台湾放棄論に対し異を唱えたのが施琅だった。以下は施琅が清朝の皇帝、康熙帝に上疏した内容だ。

施琅の上疏内容

①台湾は位置的に中国南部の沿岸部の防波堤のようなもの
②敵対勢力は必ず台湾の原住民と結託して反旗を翻す
③オランダなどの諸外国も台湾を狙う
④澎湖だけ守っても台湾を放棄すれば反乱勢力は孤立した澎湖を攻撃してくる
⑤そもそも台湾は土壌が肥沃で物産も豊富。それを手放すなんてモッタイナイ!

台湾を敵に渡さない為だけの消極統治

こうして台湾を統治する事に決めた清朝だったが、その目的はただ一つ"敵に台湾を渡さない為"だけだったので、その経営方法は大変消極的なものだった。以下いくつかの事例を紹介しよう

住民の引き揚げ政策

清は台湾の領有を決定すると台湾と澎湖島を福建省の管轄下におき、福建分巡台湾廈門道(通称:台廈道)という台湾と厦門を統治する官職が置かれ、移住民10数万人を強制的に引き揚げさせた後も島内で全面的な人口調査を行ない、残留移住民の中で妻子や生業を持たない者を直ちに中国に送還した。また妻子や生業を持つ者も原籍地の官庁に申請させた上、台廈道が審査し犯罪歴のあるものは強制帰還させた。

厳しい渡航制限

台湾に住んでいた移住民を強制的に引き揚げさせた後は「台湾渡航禁令」を発し厳しく移民制限を行なった。以下はその内容だ。

渡航条件

①渡航希望者は申請の上、三段階の審査を経て許可がもらえる
②渡航者の家族の同行は禁止
③広東省の住民は一律渡航禁止

③に関してだが「広東省は海賊の巣窟だから」という理由からだった。広東省は客家人が多く居住するところで、一説によると施琅が客家人に偏見を持っていたからとされている。この制限によって客家人の台湾入植は他の漢人たちと比べ遅くなった

taka
それでも危険を冒して台湾に渡航する人が後を絶たなかったんだよ
アイン
台湾人の逞しさが垣間見えるな

兵士に対する制限

渡航制限に次いで設けたのが治安維持には欠かせない班兵制度だったが、ここにも制限がかけられた。以下はその制限内容である。

班兵制度の内容

①班兵は台湾島内からでなく中国大陸の沿岸海域から選んだ
②任期は3年だった
③選ばれる条件は家族持ち。しかも家族の同伴は禁止だった


これらは全て兵士が武装勢力化し反乱するのを恐れての措置であった。大陸内に人質をとりつつ三年で帰還させる事により現地での武装勢力形成を阻止する目論見があったのだ

開発制限

①番界設定と封山
外からの渡航制限に加えて、すでに台湾に移住している住民には封山令で制限をかけた。また原住民と漢人の居住地域を明確化するために土牛紅線と呼ばれる境界線を引いた。これは漢人の土地開発から原住民の居住地域を守るためではなく以下の理由からの措置であった。

番界設定の理由

①漢人が逃げ込まないようにする為
②原住民と漢人とか結託しないようにする為
③原住民を山に封じ込めておく為

taka
以下は当時の番界図だけど赤線は古い番界で青線はその後引き直された新しい番界。つまりこれは制限していたにも関わらず漢人たちの開発が原住民居住区を侵食していった事を表しているんだよ

画像引用元:歴史文物陳列館

②鉄の制限
また清国政府は移住民たちが武器を手にすることを恐れ、長期に渡り鉄と鉄製品の移入だけでなく鋳造も禁止した。農機具の製造は数少ない政府認定の鍛冶屋のみによって行われ、材料である鉄も福建の特定ルートからしか輸入できなくした。この封山令や鉄製農具の制限により農業の生産力を弱め、台湾の土地開発を阻害したが、台湾への渡航制限同様、規則を破る者が後を絶たず、歳月の経過により有名無実化していった。

アイン
やっぱ台湾人の祖先たちは逞しいな
taka
移入者の土地開発による一番の被害者は原住民だった。なにせ自分たちの土地を追われることになったのだから

③城壁建設の禁止
オランダやスペインなどの国は台湾を占拠するとすぐに城塞を築いたが、清国政府は逆に40年間、城壁の建設を禁止にした。これは反乱軍の拠点が作られることを恐れたための措置だった。

参考記事
台湾史入門③‐オランダ統治時代‐

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悪循環の消極経営

官吏の腐敗

帝国版図の辺境に位置する福建は元から官吏の素質に問題があった事に加え、台湾は更に辺境に位置する上、様々な渡航制限や俸給の低さから、派遣される官吏たちの素質は決して優秀とは言えず、その多くは汚職に手を染めていた。また兵士たちの士気も低く博打や遊興にふける者が少なくなかった。こうして台湾島内での官吏や兵士たちの腐敗が進んでいったのだった。

地方支配力の不足

元から質が良くない事に加えて、そもそも人の絶対数が足りなく更にその多くは南部に割かれていた事もあり北部や中部では行政機関や兵士が全く足りず、地方の治安維持には限界があったのだ。また清国に於いて行政機関の手が及ばない部分を補っていた士紳階級も当時の台湾には殆どおらず、地方の治安は荒れる一方だった。

taka
台湾北部から中部にかけて駐屯していた部隊は僅か120人程度だったんだよ

士紳階級とは?

士紳とは地方に於いて文化的、社会的な地位を持つ階層で、主に法令の公布や紛争の仲裁、不法行為の通報などにあたっていた。

五年一大乱、三年一大乱

地方支配力の不足や様々な制限、そして官吏の腐敗は、却って移住民の反乱を招き武装蜂起や騒乱が後を絶たなかった。その数は清国政府が台湾を統治した212年の間に大小100程であった。

こうした武装蜂起や台湾に蔓延していたマラリアなどの風土病は、台湾への赴任を躊躇させ、また派遣される官吏や兵士の意欲を削ぐには十分すぎる効果を及ぼし’、結果として更なる質や士気の低下を招くことになったのだ。

因みにこうした武装蜂起や騒乱は殆ど漢人たちによるものだったのだが、その中でも『朱一貴の乱』『林爽文の乱』『戴潮春の乱』は清国統治下の台湾三大反乱と言われている。

taka
こうした武装蜂起の殆どが漢人たちによるものだった理由として『天地会』という秘密結社の存在があるんだよ
アイン
イルミナティ?

天地会とは?

異民族国家である清王朝の打倒と、漢民族国家である明王朝の再興を目指した組織で経済的には移住民の互助を目的とした。入会時には互いに血を杯を交わし義兄弟の契りを結んだ。

以上のように消極経営は官吏や兵士の腐敗構造並びに地方支配力低下を招き、様々な反乱な反乱を呼ぶ結果となり、またそれらが消極経営に拍車をかけるという悪循環をもたらしたのだった。しかしその間も渡航する人は後を絶たず、当初の渡航制限や開発制限は有名無実化していったのだった。

今回のまとめ

✅清朝は台湾を敵に渡さない為だけに統治した。
✅その消極的経営は却って台湾の反乱を招く事にもつながった。
✅渡航や土地開発に関する様々な制限にも関わらず渡航者は後を絶たず、非合法に土地開発は進められていった。

taka
漢人移住者の増減は、その後の台湾でも見られる様々な文化や風習をもたらしたんだよ。一方で迫害を受け続けた原住民は衰退の一途を辿ったんだけど、それはまた次の記事で。

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