

明と日本との貿易に食い込む拠点が欲しかったオランダ、そして清と戦う為の拠点が欲しかった鄭氏政権と比べ、ただ敵に拠点を作られたくない為だけに台湾を統治した清。その経営方針は消極的なもので台湾を発展させるつもりは毛頭なかったのだが、それに反して渡航者は増え続ける一方だった。
今回はそんな台湾を「開拓」していった人たちのお話なのだが、少し冗長になってしまうので、先ずは全体的な流れを紹介したい。
全体的な流れ
↓
②台湾の土地を開拓していく
↓
③農作物を商品化する
↓
④清朝の貿易圏に加えられる
↓
⑤港町が栄え始める
以上の流れに沿って今回は話を進めたい。
今回のポイント
✅移民の出身地とその分布
✅台湾の土地開拓とその方法
✅貿易の変化と栄え始める港町


移民の開拓と経済発展
増え続ける移民と出身地
漢人人口の増加
以前の記事でも触れた通り、当時の台湾には今日のような戸籍制度もなかったので人口に関しては各種資料に基づいて推測する他がなく、正確な数字は出しに難いのだが、鄭氏政権時代の漢人の人口は12万から最大で20万人ぐらいだったとされている。その後、日本統治時代に入り本格的な人口調査が行われた結果、漢人の人口は290万人に膨れ上がっていた。つまり清朝時代の212年の間に270万人以上の漢人が台湾に移住してきた事がわかる。
移民の出身地とその割合
先ずは下の図を見てもらいたい。これは日本統治時代の調査結果によって作成された台湾に於ける漢人の出身地割合だ。

先ずは地図の色と地域に着目してほしい。緑は漢人でピンクが客家人を表している。この地図から福建の泉州からは約45%、漳州からは約35%の漢人達が移入して来た事が分かる。一方で広東の潮州からは3.6%の漢人、広東の他の地域からは約13%の客家人が移入してきた。
次にそれぞれの移住先だが、最初に移住してきた泉州人たちは住みやすい海沿いの平野に、次に移住してきた漳州人は内陸に住み、一番最後になった客家人たちは住みにくい山沿いの地域に移住したと言われてきた。しかし最近の研究によると彼らがこのような移住先に落ち着いた原因として、故郷の生活様式と関係があるとされている。
当時泉州人たちは農業を捨て商業に生きた人が多く、商売や貿易、漁労などを生業としていた。その結果、移住先でも自然と沿海地区を選んだのだという。
そして漳州人たちは農業に従事していた人が多かったので、その移住先は内陸の平野になっていった。
一方で客家人たちだが、故郷は山間地域であったため、山地での農耕生活に長けており、自然と故郷に環境の近い台湾の山地を移住先に選んだという事だ。
移住先台湾での分布
漳州人(漢人)…内陸の平野
客家人 …山地

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台湾史入門⑤清朝時代Ⅰ‐超消極的台湾経営‐
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台湾の土地開発と経済発展
清政府の消極的台湾経営に反する形で増えていった移民たちによって台湾の経済は発展していった。以下はその大まかな順序である。
経済発展の順序
↓
②農業の発展
↓
③農作物の商品化
↓
④貿易
土地開拓
漢人移民たちの土地開拓を語る上で欠かせないのが一田多主の土地制度だ。



先ず当時の開墾を話すにあたり、以下の二つの大前提があったのだ。
清朝時代の台湾の土地のニ大前提
②平埔族所有以外の未開墾地は全て政府のものだった。
以上の前提から、漢人が開墾をする際には政府が発給する許可証を得るか、平埔族から土地工作の権利を取得する必要があったのだが、何せ開墾するのは広大な土地なので大きな資金が必要だったので多くの場合は共同出資による経営方式が見られたのだった。ここで一つ例えると、開墾する土地の広さが東京ドーム10個分だったとする。

平埔族か政府から東京ドーム10個分の開墾許可を得た人たちを「資本家グループ」と呼ぼう。この資本家グループは広大な土地を自分たちで開墾するわけではない。そこで土地を10等分に分けて貸し出す。この土地を借りた人たちを「投資家グループ」と呼ぶことにする。
投資家グループは東京ドーム1個分の土地を得たわけだが、当然それも自分たちでは耕作できない。なのでそれを更に100等分にして、100人の人たちに貸し出す。この土地を借りた人たちは実際に土地を耕す人たちなので「労働者グループ」と呼ぼう。
労働者グループは毎年、小租と呼ばれる年貢を投資家グループに納める。そして投資家グループは集めた小租の中から、今度は大租と呼ばれる年貢を資本家グループに納めるのだ。
ここまでは平埔族の土地を借りたグループも、政府から開墾許可を得たグループも同じなのだが、資本家グループの中で政府から開墾許可を得たグループは政府に年貢ではなく税金を納める。そして平埔族から土地を借りたグループは、平埔族に年貢を納める傍ら、政府にも平埔族に代わって税金を納めるのだ。
この資本家グループの事を大租戸と呼び、投資家グループの事を小租戸、労働者グループの事を小作農と呼ぶ。以下はその仕組みを図にまとめたものだが、一つお断りを。当時の呼び方で「番」という字を使用しているが、それは当ブログが彼らを蔑視しているわけではないという事だ。



水利事業
農地開拓をするにあたり、灌漑施設の建設は避けては通れない。前述の通り清朝政府は台湾経営に極めて消極的だったので、施設の殆どは民間有力者の主導で完成したものだった。この水利事業を巡っては、後に様々な闘争を生むことにもなったのだが、台湾の農業発展にとって大きなブーストとなったのだった。

画像引用元:taiwan school net
農作物の商品化
元々オランダ時代より台湾の農業には商品化現象が見られた。当時の主要作物は米と甘藷から作られる砂糖だったが、清朝時代には樟脳の採取が行われ始め、主要な商品となっていった。
樟脳とは?
クスノキから採取した芳香のある揮発性の白い半透明の結晶で現在でもセルロイドや芳香剤、無煙火薬などの原料となっている。当時は薬や香料、殺虫などに用いられた。

画像引用元:國立台灣歷史博物館
貿易の変化
この頃、東アジアの貿易図に大きな変化が訪れていた。そもそもオランダ統治時代や鄭氏政権時代、台湾とは明と日本を結ぶ重要な貿易拠点だったのだが、台湾が清朝の版図に入ると日本は台湾からの貿易を制限し、一方で清朝も閉鎖的な対外政策をとった為、台湾は国際貿易網から外れ、清朝の交易圏内に編入されることになった。年に2回から3回も収穫できる米は清朝の食糧不足を補う重要な供給源となり、また砂糖や樟脳重要な輸出品となった一方、綿や絹、乾物や鉄器などの日用品は大陸からの輸入に頼らざるを得ず、台湾は清朝における経済的な「国内植民地」となっていった。
栄え始める”国内植民地”台湾
「正港」の拡張
こうして台湾が地域分業を担う一角となったことから、清朝は当初、唯一の合法的な正式港湾(正港)であった府城(台南)の鹿耳門だけでなく、台湾中部の鹿港、北部の八里坌などを正港とし、清朝と貿易できるようにした。正港には清から運ばれてきた「正港の品」と呼ばれる物であふれ、街は賑わって行った、

画像引用元:鱷魚把拔教歷史




ギルドの形成
大陸との交易の発展により、正港には「郊」という商業ギルドが形成されていった。当初は正港にのみあった郊も次第に台湾各地の港で形成され始め、また扱う商品毎に「糖郊」や「布郊」「米郊」などと細分化されていった。この郊商は政府公認の独占的な存在であり、後に台湾の商業資本家として発展していく。また彼らは特権と引き換えに、民衆の蜂起の際には政府の立場に立ち、鎮圧に加勢したりもした。


栄える港町
『一府二鹿三艋舺』という言葉がある。これは当時栄えていた街の事で、日本語にすると『一に府城、二に鹿港、三に艋舺』となる。下は清朝前期に栄えていた主要都市だが、当時は陸路が発展していなかった為、必然的にその多くが沿岸部に集中していた。

画像引用元:ウィキペディア
さて、その中でも鹿港は『空が見えない街』と言われていた。理由は訪れる客が日差しや雨風を避けられるようにとの配慮で、今でいう商店街のアーケードだと思えば分かりやすいだろう。以下に紹介する二枚は日本統治時代に撮られた写真だ。

写真引用元:自由時報

写真引用元:自由時報







後追いの行政区画の調整
以上見てきた漢人による「台湾開拓史」は、決して清朝による政策ではなかった。語弊を恐れずに言えば、それらは全て台湾での一攫千金を狙い、危険を顧みず渡航した民間人によるものであった。そもそも清朝の統治政策は極めて消極的なものであり、行政区画においても重視されていたのは土地開発や財政収入の安定などではなく、国防と治安の一点に集中していたのだった。
以下に紹介する行政の変遷も漢人移入者の増加に伴う治安維持の必要性から行われたものであって、決して台湾の開拓や発展を目的としたものではなく、謂わば後追いの行政改革であった。

画像引用元:slideplayer.com
この図でもわかる通り、台湾の行政区画の変遷は南から北、そして西から東であり、それは言い換えると漢人移住者による台湾開拓の流れそのものなのである。
まとめ
以上のように清朝時代の台湾は①土地開拓→②農業の発展→③農作物の商品化→④貿易 というように発展していき、それに伴い⑤行政区画の調整 が行われた。あくまでも民が先で公が後なのが清朝時代に於ける台湾開拓の特徴なのである。
今回のまとめ
✅清朝の消極的な方針にも関わらず漢人移民が激増した。
✅日本の鎖国政策を受けて国際貿易拠点としての台湾の価値は激減し、新たに清朝の交易圏内に編入された。
✅「台湾開拓」は全て民→公の順序で行なわれた。


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台湾史入門その前に③台湾の今を知ろう‐民族編‐
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