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台湾史入門

台湾史入門⑦清朝時代Ⅲ‐台湾開拓に伴う諸問題‐

前回は台湾を「開拓」した「男たち」についてを紹介したが、今回は台湾開拓の過程に起きた様々な問題について少し掘り下げて紹介したい。まだ前回記事を読んでいない人は、台湾開拓と発展の流れを掴んでからの方が今回の話が理解しやすいと思うのでぜひ目を通して頂きたい。

参考記事
台湾史入門⑥清朝時代Ⅱ‐民間先行の台湾開拓‐

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アイン
なんやねん「男たち」って。ウチら女を見下してへんか?(怒)
taka
実は文字通り「男たち」なんだよ。その理由は後ほど…

今回のポイント

✅アンバランスな男女比が生み出した悲劇
✅台湾で反乱が失敗した原因とは
✅消えた平埔族の謎

taka
今日もわかりやすく台湾史を紹介するよー
アイン
ちゃんと犬にもわかるように簡単に説明してや!
taka
ごめん。今日は皆さんが「台湾史入門」を修了した後を見越して、少し「初中級編」の種もまいておくよ
アイン
いきなり嘘つきやんか…

台湾開拓に伴う様々な問題点

増え続ける男たち

有唐山公、無唐山媽

清朝が台湾経営に極めて消極的だったのは以前の二回の記事でも紹介したが、それを如実に表すのは渡航制限だった。それでも台湾の人口が大幅に増加したのは密航移民が多かったからで、その内訳も男が殆どだったのだ。

このような状況から多くの漢人男性は終生妻を娶れずにいたが、平埔族の女性と通婚する者も少なくなかった。清朝は漢人と原住民との通婚を禁じ罰則も規定していたが、あまり効果はなかったのだ。そんな中で生まれた言葉がタイトルにある『有唐山公、無唐山媽』である。

唐山とは中国を意味し、訳すと『中国から来たお爺さんはいても、中国から来たお婆さんはいない』となる。また平埔族の女性が漢人に嫁ぐため、平埔族の男性も結婚が難しくなったばかりでなく、生まれてくる子どもは漢人系移住民とされた事から、通婚の増加が原住民人口減少させた原因となったのだ

漢人A
結婚したいよー

生蕃と熟蕃

通婚の殆どは高山族ではなく平埔族との間だったのだが、これには①住んでいた場所②従属的か否かという2つの理由がある。因みに両者ともに「原住民」にカテゴライズされている事は以前の記事でも紹介したので参考にしてほしい。

参考記事
台湾史入門その前に③台湾の今を知ろう‐民族編‐

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先ず住んでいた場所についてだが、高山族、平埔族共に民族的にはオーストロネシア系諸族であり、その差は一部例外を除き単に山に住んでいるか平地に住んでいるかだけなのである。(高山族の中でもタオ族だけは山ではなく蘭嶼という島に住んでいる) 

前回記事でも紹介した通り台湾の開拓は南から北、西から東なのだが、西から東へ進む際に大きな問題となるのが中央山脈の存在だ。この山脈はあまりにも険しいので、多くの場合は迂回しながらの開拓となり、高山族との接触は平埔族と比べ圧倒的に少なかったのだ。

参考記事
台湾史入門その前に②台湾の今を知ろう‐地理編‐

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また平埔族は、その地理的要因から漢人との接触の機会が多く、高山族と比べて教化に服する蕃(グループ)が多かった。清朝はこれら教化に服する蕃を熟蕃、そして教化に服さない蕃(主に高山族)を生蕃として区別したのだった。平地に住み漢人と接触の多い平埔族は既に熟蕃として清朝の台湾統治の枠組みに加えられていたことから、通婚がし易かったのだ。

平埔族は何処へ消えた?

さて、ここで遂に消えた平埔族の謎について言及するが、先に断っておくと平埔族は今でも存在する

アイン
どないやねん!(怒)
taka
但しその数は圧倒的に少なくなっている。嘗ては台南一帯に居住していた平埔族の一支族であるシラヤ族も、文化消滅の危機に瀕している

平埔族が表舞台から姿を消した理由は大きく分けて2つ。一つは土地の喪失、そしてもう一つは「漢人化」である。漢人化に関しては上述の通りなので、次に土地の部分について紹介しよう。

前回記事で紹介した一田多主の仕組みだが、そこで言われている番地とは平埔族(熟蕃)の土地の事だった。そしてこれらの土地が悉く漢人たちの手に渡ってしまったのだが、その理由は以下の3つである。

平埔族が土地を失った理由

①漢人の開墾による鹿の減少
②漢人による強奪
③漢人による「合法的な」土地の奪取

①漢人の開拓による鹿の減少
無開墾地を開拓する場合、漢人は政府に許可を受け借り入れする必要があったのだが、ここで言う「無開墾地」とは漢人の視点にものであり、これら草の生い茂った平原は鹿と、それを狩猟する平埔族にとっては生活の基盤だったのだ。それらが100年から200年の間に、どんどん開拓されていった事により鹿が激減。熟蕃である平埔族は鹿の皮を収入源とし清朝に税を払っていたのだが、それが滞ることとなり、土地を漢人に売り渡す者が後を絶たなかったのだ。

②漢人による強奪
残念ながら漢人達による土地の強奪や詐取なども往々に見られた。通事の張達京などは、その職権を濫用し莫大な財を成したのであった。勿論それは平埔族の犠牲の元にである。

通事とは?

蕃の言語や慣習に精通した漢人通訳。古くはオランダ統治時代の頃から見られ、蕃の代表としてオランダ人との折衝や税の代理徴収などを担った。清朝時代には台湾に人員を割かない政府に代わって引き続き漢人と熟蕃の交渉などを行なった。

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張達京
広東出身の客家人。平埔族の村で疫病が流行った際に漢方に長けていた張達京はこの治療にあたり多くの村人の命を救った事から大変感謝され、その後合計の6人の平埔族の姫を妻に娶り地位を得た。

③漢人による「合法的」な土地の奪取
以下は前回記事で紹介した図だが、復習を兼ねて見てみよう。

左のグループに着目してもらいたい。番地を借りた大租戸は番人に年貢を納め官府には代理納税するのだが、この制度を悪用し故意に滞らせる事で土地を奪取する人間もいた。そして何より問題だったのは、そもそもこの一田多主という制度自体、漢人が作り上げたルールであり、土地共有の意識はあっても土地所有の概念などなかった平埔族にとっては相手の土俵に立ったやり方になってしまい、結果として土地を失ったケースが多かったのだ。それ以外のケースとしては上記にも挙げた通婚による平埔族の漢人化であった。

以上のように漢人化+土地の喪失という二大要因により平埔族は表舞台からは姿を消したと表現したが、これは文化や言語についてであり、一部は後述するが復興の兆しも見え始めている

また通婚の結果、多くの台湾の漢人のなかに平埔族の血が流れているのだ。他にも一説によると台湾で広く普及している地基主という民間信仰での神様は、そのルーツが平埔族の神様だという。地基主に関しては以前の記事でも少し紹介しているので参考にしていただきたい。


taka
最近では医学的なアプローチからも漢人の中に流れる平埔族の血についての研究がなされているけど、それはまた別の機会に紹介するよ

平埔族の移動

土地を喪失した平埔族の一部は追われるように山地や東部へと移動したことから、「内に熟蕃、外に漢人、間に熟蕃」というような区分が生じた。オランダ統治時代から度々歴史の舞台に上がっていた南部のシラヤ族の一部も、花蓮や台東へと移り住んだのだった。

平埔族の移動。赤の線がシラヤ族の移動を表すのだが、一部は中央部に坐する険しい中央山脈を越えて東部まで到達している。
平埔族の村。生蕃の近くに位置するので防御施設である隘寮があった。皮肉なことに隘寮がある所は漢人の安全が比較的保障されることから、却って開墾が進んでいった。
画像引用元:歴史文物陳列館

シラヤ族とは?

台湾南部に居住している平埔族の一支族。シラヤ語の「Tayan」(他所から来た人)に「台員」という文字を当て、それが後に「台湾」になったとされている。いわば台湾という国名を作ったルーツの人たちなのである。シラヤ語は新港文書として残っていたものの、読み方も分からず消滅の危機に瀕していたが、ビサヤ族の血を引くフィリピン人音楽家、エドガー・マカピリ氏が2002年にシラヤ族の女性と結婚。ビサヤ語の知識でシラヤ語が読み解けると指摘し研究を重ねた結果、2008年にはシラヤ語辞典が作成されるなど、文化の研究・復興が進んでいる。2020年現在、国の原住民認定を受けていない。

以下はエドガー・マカピリ氏が紹介された動画。29秒からは氏がギターを演奏しながらシラヤ語で歌っている。

オランダ語と新港文字による二言語対照の『マタイによる福音書』
画像引用元:wikipedia

「漢人」とはいうものの… 

漢人の分類と、その出身地並びに居住地

今までは漢人移民と原住民との間の衝突や軋轢について紹介したが、漢人も一枚岩ではなかった。そもそも以前から「漢人」と一括りにしているが、出身地や宗教などで3つのエスニックグループに分けられるのだ。

同じ漢人でも先ずは客家人とホーロー人(福老人)2つのグループに分類できる。以下は前回でも紹介した地図だが、ピンクが客家人で緑がホーロー人だ。そして今回は出身地の割合ではなく、定住先に注目してもらいたい。

画像引用元:地圖會說話

ホーロー人とは

1945年以前に台湾に渡って来た漢人で閩南語(台湾語)を母語とし閩南文化を共有している人たち。閩南人ともいう。ちなみに「閩」とは福建の古称。客家人は文化も言語も違うので同じ漢人移民ではあるがホーロー人には含まれない。

次に以下の図だが、これは日本統治時代にとられた《臺灣在籍漢民族鄉貫別調查》という統計をもとに作成された漢人の出身地を表した地図だ。上の図では緑一色だったホーロー人の出身地別分布が詳細に記されているが、潮州人や漳州以外にも多くの地域から来ている事がわかる。

画像引用元:歷史地圖繪製室

ご覧の通り、同じホーロー人でも6種類以上に分類されるのだ。そして彼らホーロー人は出身地ごとに別の神様を祀っている、極論を言えば国も宗教も違う人たちのコミュニティーを形成していったのであった。なお宗教の違いについては次回の記事で少し紹介する。

繰り返される分類械闘

それぞれ国も宗教も違うコミュニティーが形成され隣接していると必ず起きるのは紛争だ。そして往々にして紛争は武力衝突に発展した。これを分類械闘と言うのだが、その原因は大きく3つに分けられる。

分類械闘が起きる原因

①経済的原因
②社会的原因
③政治的原因

①経済的原因
農地や水利を巡っての衝突。

②社会的原因
政府が積極的に管理していない不安定な開拓移民社会ゆえに自己防衛の必要から、兄弟契りを結ぶ風習が盛んだった。前々回の記事で紹介した天地会などが良い例で、それらは各地に名を変え存在していた。それに加え後述する羅漢脚が大勢いた。天地会や羅漢脚は気性が大変荒く且つ集団を成していて、些細なことで衝突した

③政治的原因
行政区画の不備や役人配置の不足で公権力が行き届かない上に、行政が腐敗していた。中国本土でも同様のケースは見られたものの、士紳階級がそれを補っていたのだが、清朝前期にはまだ士紳階級が存在せず、社会秩序維持への協力もなかった為、紛争が起きた際、住民達は自らでこれらを解決する必要があった。

羅漢脚とは

男女比がアンバランスな台湾社会に於いて結婚も定職もなく浮浪者になった人たち。羅漢脚の生活は大変不安定で一部は盗みや女遊び、博打に走ったり匪賊になるものまでいた。分類械闘は彼らにとって略奪などが出来るチャンスでもあり、しばしば暗躍しており、社会の不安定要素となっていた。

taka
少し前までの世代だと独身男性の事を羅漢脚といってからかったりしていたよ
アイン
あんたも羅漢脚やしね
taka
今日、晩飯抜いていやるぞ!

まとまらない台湾人

生蕃との度重なる衝突に加え、漢人同士でも潮州人vs漳州人やホーロー人vs客家人などの分類械闘が頻繁に繰り返される上に、政府の積極的な管理もなく、台湾は一つにまとまるどころか内部で紛争が起き続けた。無理もない話で彼らにとって台湾とは生きるための手段として選択した場所なのであって、「一人の台湾人として意識」など毛頭なかったのだから

台湾三大反乱の失敗理由

分類械闘が漢人同士の内輪もめなのに対し、反乱とは漢人vs清朝政府の闘いだ。頻発する反乱の中でも『朱一貴の乱』『林爽文の乱』『戴潮春の乱』が清国統治下の台湾三大反乱と言われているのは前々回の記事で紹介したが、今回はその詳細について紹介したいが、結果としてどれも失敗に終わった。それも全ては漢人同士のつぶし合いが原因だった。

朱一貴の乱
 平素から人望を集めていた朱一貴が台湾府知府(長官)の暴政に不満を持つ1000人余を率いて反乱に乗り出し官軍を撃破。台湾府城を制圧し自らを中興王と称した。この朱一貴の乱は三大反乱の中で唯一、ホーロー人と客家人が手を結んだものだったが(正確には手を結んだ潮州人の杜君英が客家人を率いていた)後に対立し内乱が起こった。清朝は中国本土から兵を派遣し朱一貴は囚われの身となり北京に送られ処刑された。

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朱一貴
福建出身の漳州人。下級役人を務めた後に家庭内労働や農業に従事し、今の高雄市で養鴨を営み財を成す。平素から人望厚く「鴨母王」と称されていた。

林爽文の乱
 三大反乱の中でも最大の反乱。これも元はと言えば清朝官吏の暴政が根幹にあり、民衆はかねてより不満をもっていたところに天地会弾圧が始まる。林爽文は同じ天地会の叔父が捕まり蜂起。瞬く間に台湾全土に普及した。しかし林爽文が漳州人であったことから泉州人の妨害を受けた。特に強く抵抗したのが諸羅県の住民で、最終的に林爽文は捕まり北京で処刑された。清朝は諸羅県の住民に対し「その忠す」とし、諸羅を嘉義と改称した。

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林爽文
福建出身の漳州人。現在の台中市大里に住んでいた。天地会に加入後、彰化天地会の指導者として頭角をあらわす

戴潮春の乱
 これも会党弾圧に端を発したものだった。会党とは反清の秘密結社の事で天地会が有名だが、戴潮春は天地会ではなく八卦会という組織を率いていた。元々八卦会と清朝とは良好な関係を築いていたが、八卦会の規模が拡大する中で不法行為が目立ち始め、清朝政府が弾圧に乗り出すと彰化県で蜂起した後、各地の士豪がこれに参加した。戴潮春は漳州人であった為、泉州人の支持が得られず、泉州人の中心地である鹿港に攻め込み漳州vs泉州の構図となった。また戴潮春に協力していた士豪の林日成は兼ねてより因縁のあった台湾中部の名家「霧峰林家」を根絶やしにしようと攻撃した霧峰林家に反撃をされ敗れた。

一方で清朝はその頃起きていた太平天国の乱の対応に追われ台湾まで手が回らない状態であったため、霧峰林家などの団練(地方の有力者が組織する武装集団)や義勇組織など、台湾現地の手を借りざるを得なかった。中国本土での反乱などもあり、かつ各地の士豪が加わったため、平定には3年を費やす羽目になった。

この乱の後、霧峰林家は平定に功があったとして、反乱に参加した土豪から没収した財産を与えられた以外にも、台湾を含む福建省での樟脳の販売の独占権も獲得し、一躍台湾中部の最大の勢力をもつ家族となった。

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戴潮春
福建出身の漳州人。裕福な家庭に生まれる。戴潮春の長兄である戴萬桂は、かねてより自警団を組織していたが、これを発展させた。その後、彰化県の知県から治安維持を委託され天地会メンバーを吸収した結果、瞬く間に組織は拡大し10万人に膨れ上がった。この組織を近くの八卦山(彰化県)にちなんで、八卦会と称した。

太平天国の乱とは

清朝の中国で起こった大規模な反乱。平定まで13年の月日を要した

以上見てきたように、反乱の多くは清朝への不満がきっかけなのだが、台湾に住む人たちが利害を超えて一つにまとまる事はなかった。三大反乱以外にも合計で42回の反乱が起きたが、その殆どが内輪もめや、政府の側に立った郊商(前回記事参照)や士豪などの手によって阻止された。皮肉なことに台湾に住む人々が出身地や民族、宗教を超えて「台湾人」として団結するのは、次の統治政権が島へやって来るその日であった

まとめ

増え続けた台湾移民だったが、同じ漢人でも出身地によって団結し決して一枚岩ではなかった。また清朝の消極的な台湾経営方針もあり、地方では民間人による半自治のような状態が続き、出生地ごとに結成されたコミュニティーがより強いものとなっていった結果、様々な紛争が発生したのであった。

今回のまとめ

✅中国から大量の男性が移住した結果、男女比のバランスが崩れ、平埔族との通婚が盛んになった。
✅出身地ごとに結成されたコミュニティー同士の争いが後を絶たなかった。
✅清朝政府に対する反乱にも、台湾人が一枚岩となり対抗することはなかった。

taka
こうして増え続けた漢人移民だったけど、時間が経つごとに成熟し融合が始まった結果、新たな社会や文化を形成していくことになるよ。それはまた次回のお話
アイン
「わかりやすい台湾史」とかいう割に、なんか難しかったぞ!

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