



前回まで2回にわたり紹介した清朝時代の「台湾開拓史」。重要なのは以下の3つなので、まずはポイントをおさえておこう。
前回までの3つのポイント
- 清朝は台湾を渋々経営してたので、とても消極的だった。
- それにも関わらず大量の漢人が非公式に移住した。
- 漢人とは言うものの一枚岩ではなく、多くの衝突があった
色々と問題はあったものの経済的に発展していった台湾。いつの世も物質的な豊かさが担保されると次に文化的な豊かさを求めるものだ。今回は当時の台湾社会と文化についてのお話。

今回のポイント
✅台湾での文教事業
✅外来信仰の融合と土着化
✅習俗の定着と娯楽の誕生


花開く漢人文化
文化が発展するには2つの土台が必要になる。1つは経済的基礎、そしてもう1つは教育水準だ。前回までに経済的基礎の話はしたので、今回は教育の発展について紹介したい。
文教の発展
統治に消極的だった清朝だが、台湾を版図に編入すると教育事業に力を入れた。具体的には府儒学や県儒学という政府の学校を作り学問を教えたのだった。



科挙制度と士紳階級の誕生
府儒学や県儒学という政府認定の学校で勉強した台湾人は先ずは「童試」という試験を受けて合格すると「生員」になる。少し無理やり例えると地方公務員試験→国家公務員Ⅲ種→Ⅱ種→Ⅰ種といった具合にグレードが上がっていくのを想像すると分かりやすいかも知れない。


清朝は台湾在住者の受験を促すために台湾生員の合格者枠を設けるなどの措置をとった結果、制度開始後140年ほど経った1823年、台湾初の進士が誕生した。



士紳の誕生と書院
知識人が増えた結果、士紳と呼ばれる人たちが台湾にも誕生し、書院と呼ばれる寺小屋の運営に力を入れた結果、台湾の教育レベル向上に一役買うことになった。
士紳とは
生員以上の資格を持っている人を指す。地方の有力者として一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。郷紳とも呼ぶ。

書院は台湾での漢文化の発展に大きく寄与した。今も台南を中心にいくつかの書院跡が残っているので、機会があればぜひ足を運んでほしい。因みに台南の観光名所でもある孔子廟は当時唯一の「童生」を受け入れる教育機関で、その門には今でも『全臺首學』の字が刻まれている。





奎樓書院(別名:中社書院)台南
「府城四大書院」のひとつ。書院とは呼ばれているものの、主に研究機関として使用されていたので他の書院とは少し趣きが違う。かつては幼稚園としても再利用されていた。

学海書院(高氏祖廟) 台北
台北に現存する唯一の書院で、元は文甲書院と呼ばれていた。日本統治時代に高さんが競売に掛けられていた当書院を購入し祖廟に改装したことから、今は高氏祖廟と呼ばれている。

花開く漢人文化
伝統的士紳文化
当初、台湾の芸術文化の担い手は中国から官吏や文人であったが、後に台湾生まれの士紳の作品も増え始めた。特に林朝英の書画や絵画は当時大いに注目された。


画像引用元:高明達的部落格
習俗や年中行事の普及
漢人移民たちは春節や端午節を初めとする様々な年中行事を台湾に持ち込み、それは今でも台湾人たちの生活の一部になっている。各行事の詳細は以前、当ブログでもいくつか紹介しているので参考にしてほしい。
またこの頃は富を誇示する習慣が生まれ始めた。神への尊敬を表すために祭りでどんちゃん騒ぎをおこすのだ。「陣頭」は後に紹介する媽祖信仰の広がりからも普及した。ほかには「辦桌」と呼ばれる食習慣が見られるようになったのもこの頃だった。
陣頭とは
農曆3月19日から23日まで「媽祖」をお迎えする際の祭典。由来となっているのは昔、福建省を出発した媽祖の像を19日に笨港(今の北港と南港)でお迎えしたことから。毎年この日になると盛大にお祭りをする。

画像引用元:爆料公社
因みに陣頭は映画にもなっている。この間亡くなった「小鬼」こと黃鴻升が主演をしている作品で、台湾の伝統文化が理解できるので機会があったらぜひ見ていただきたい。
辦桌
もとはレストランなどがなく、冠婚葬祭の際に廟の近くの空き地を使用し村人が一緒になって食事したのが始まりだと言われている。今なお廟のイベントや冠婚葬祭で頻繁に見られるその風習も、清朝時代にできあがったものだ。


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娯楽
生活に余裕ができ始めると人は娯楽を楽しむようになる。前述の陣頭を始め祭りは最大の娯楽だったが他にも観劇などが庶民の楽しみだった。早期に台湾に伝わった演劇では南管と北管というものがある。
南管は泉州発祥のもので北管に比べ早くに台湾に伝わった。一方の北管は京劇と同じ源流のもので、北方の言語で歌われた。こちらの方が台湾では普及したのだが、その理由の一つとして「乱弾劇」という演劇が伴っていたのが大きい。
といっても説明だけでは分かりにくいので実際の映像を見てみよう。聞き比べると北方と南方の音楽の違いがわかるはずだ。
南管
北管


宗教と信仰
神様の出身地
前回の記事でも紹介したとおり、漢人移民たちは故郷で信仰される神様を移民先の台湾でも祀った。以下はそれをまとめたものだ。
出身地別の信仰
漳州人 …開漳聖王
福州人 …臨水夫人
潮州人と客家人…三山国王
神の役割と信仰の変化
故郷の守護神だったこれらの神様にも役割の変化が訪れた。例えば開漳聖王だが、もともとは漳州人たちの守護神だったがのが、開拓が進むにつれ台湾各地の集落の神とされ、出身地やエスニックグループを超えて信仰されるようになっていった。
また媽祖や王爺、関帝などは元から出身地問わず信仰の対象だった。以下かんたんに紹介する。
媽祖とは
船乗りの守護神。10世紀頃に実在した黙娘という人物に由来する。天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などともいい、台湾各地に媽祖廟がある。
中国から台湾に渡る際の台湾海峡は「黒水溝」と呼ばれ恐れられていたので、自然と媽祖に対する信仰はあつくなった。この媽祖も時が経つにつれ海の守護神から茶の神や鉱山の神など役割が変化していった。媽祖は台湾各地に有名な廟がある一番人気の神様なのだ。

画像引用元:文化部文化資産局


王爺は南部では「南の王爺、中部の媽祖」と言われるほどの人気ぶりで、もともと高温多湿で疫病が多かった台湾では特に信仰を集めたのだった。
王爺とは
元は道教の瘟疫神、すなわち人々を疫病で苦しめる存在だったが、一方で疫病を追い払う神ともされていた。3年に1度行われる屏東県の東隆宮の「東港迎王平安祭典」が有名。

画像引用元:微笑台湾



そして、もう1人欠かせない神様は関帝。商売の神様なので新天地で一旗あげたい移民たちに信仰された。
関帝とは
いわずと知れた三国志の関羽。商売の神様。関聖帝君、関帝聖君、関帝翁などと呼び名が多いが、台湾では関公の名で親しまれている。
以上は出身地を越えて信仰された神様だが、他にも地基主などは元は平埔族にルーツがあると言われる「台湾オリジナル」の神様なのだ。
このように宗教信仰の発展は祖先の地や姓氏、民族を超えて広がり、人々の住む居住地域が一つの祭祀圏となり、それはやがて共同意識や連帯感情を強めた重要な地方社会の形成を生んだのであった。


まとめ
以上4回にわたって紹介してきた「台湾開拓史」。清朝の思惑とはうらはらに漢人移民の人口が増え、現在の台湾伝統文化の源流が出来上がってきたのだった。
それらは平坦な道のりではなく、ましてや原住民にとっては侵略の歴史だったかも知れないが、融合を重ねるうちに台湾独特の文化や風習を形成していったのだった。
それらを本土化と呼ぶ人もいれば現地化と呼ぶ人もいるが、いずれにしても170年ほどの長い年月をかけてのものだった。
そしてここから台湾をとりまく物語が加速度的に変化していくのだ。時は1850年ごろ、といえばピンと来る人もいるだろう。なにせ日本も同じ渦に巻き込まれていったのだから。それはまた次回に。
今回のまとめ
✅人口増加と経済的安定、教育水準の向上が台湾文化の源流を生んだ。
✅信仰は出身地ごとに結成されたコミュニティーを超えていった。
✅開拓が進むにつれ信仰にも変化が訪れた。

