

今回はタイトルにもあるように欧米列強が台湾にやってきた話だが「再び」とあるように今回が初めてではない。忘れてしまった方はぜひ以前の記事も参考にしていただきたい。
-
-
台湾史入門③‐オランダ統治時代‐
続きを見る

今回のポイント
✅欧米の波、再び。
✅開港後の台湾社会


台湾開港以前
押し寄せる欧米列強の波
もともとオランダ時代には日中貿易の要衝だった台湾だったが、その後日本の鎖国政策を受けてその役割を終えた後は清朝の「国内貿易」の版図に納められていた。

ところが、そんな台湾が再び国際社会の注目を浴びることになったのには「東アジアの海上輸送に於いて重要な位置を占める」という従来の理由以外に2つある。
1つ目の理由は経済的に価値の高い硫黄や樟脳を産出していたから。また茶葉と砂糖が採れるのもイギリスにとっては魅力に映っただろう。
そしてもう1つの理由は、台湾のアヘン市場だった。
アヘン戦争
清朝とイギリスとの間に勃発したアヘン戦争は当然のことながら台湾にも波及した。イギリスは三度に渡り台湾を攻撃したが、沿岸の厳重防備をしていた台湾はことごとく撃破し上陸を許さなかった。
アヘン戦争とは
中国茶の輸入超過に苦しんでいたイギリスがインドで製造していたアヘンを清朝に密貿易することで貿易赤字を埋めてあまりある巨万の富を得た事に端を発した戦争。
アヘン戦争に負けた清朝は5つの港を開港した(南京条約)。イギリスは更に台湾の開港を求めた。理由は前述の3つの以外にも基隆で石炭も補給できるというものがあり、イギリスは基隆での石炭の採掘権を求めたのだった。


南京条約とは
アヘン戦争の講和条約で従来の広州に加えて上海や厦門など合計で5つの港を開港させた上に香港を割譲させた。また関税自主権の放棄や治外法権を認めさせた、いわゆる不平等条約。なお非公式ながらアヘン貿易も黙認させた。
台湾に触手を伸ばしていたのはイギリスだけではなく、台湾を挟んで反対側に位置する、あの国も台湾占領を主張していたのだった。
ペリー来航



日本が開港した理由として誰でも知っているペリーと黒船だが、台湾に来ていた事を知っている人は少ないだろう。日本での和親条約締結を終えたアメリカのペリー艦隊は、台湾の基隆に10日停泊し近隣の炭鉱を調査したのだった。
帰国後ペリーはアメリカの極東貿易の拠点として台湾占有を主張。これがヨーロッパにも伝わり、台湾への関心が一気に増したのだった。
アロー戦争
第二次アヘン戦争と呼ばれるアロー戦争はイギリス・フランス連合軍vs清朝の戦争で、台湾に直接影響を及ぼす事になった。以下それぞれの背景と戦争のきっかけを簡単に紹介したい
イギリス
アヘン戦争により清朝政府と南京条約を締結したイギリスだったが、常駐する広東では外国人排斥が日増しに高まり英国人住居の焼き討ち事件などが多発。滞在地での安全確保が喫緊の課題となった事に加えて、新たな港を開港させ自由貿易を広げたい思惑もあった。

フランス
太平天国の乱でキリスト教に頭を悩ませていた清朝。ちょうどその頃、一人のフランス人宣教師が中国で宣教中に捕まり死刑にされたという事件があった。
アロー号事件
広州港に停泊中のイギリス領香港船籍「アロー号」に対して、清が捜査したところアヘンの密輸船だったため、船員である清国人を逮捕した事件。
アロー号取り調べの際に、清朝の役人がイギリス国旗を降ろさせた事に対して侮辱と捉えたイギリスが、宣教師を処刑されたフランスを誘って清朝に賠償を求め起こしたのがアロー戦争だ。


天津条約と台湾の開港
太平天国の乱で弱り切っていた清朝が、最新の兵器で武装したイギリス・フランス連合軍に勝てるわけもなく、清朝は天津条約をを締結することとなった。以下紹介するのは台湾に関する部分だ。
天津条約の台湾に関する部分
●キリスト教の布教の自由
当初は台南と淡水のニ港を開港するという条約も「基隆は淡水の、そして打狗(高雄)は台南の一部」という強引な拡大解釈で四港が開港することになり、イギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの国々は次々と台湾に領事を駐在させた。



出典:trip note



開港後の台湾
ちょうど同じころ、日本でも開港がきっかけで国の在り方が大きく変動したように、台湾でも大きな変化が訪れた。以下経済と文化の観点から紹介しよう。

経済の変化
貿易
列強諸国の資本が次々に台湾に拠点を置いた。特にイギリス商人は台湾にとって最も重要な貿易国となった。中でも「徳記洋行」と「怡和洋行」は有名で、前者の建物は今や台南の人気観光スポットに、そして後者は今では巨大企業に成長している(現ジャーディン・マセソン・ホールディングス)

出典:台南旅遊網

出典:台南旅遊網

欧米資本がやってきた事で、台湾の対外貿易は大幅に成長した。特に茶葉と樟脳は主要商品にまで成長し中でも茶葉は全体の輸出総額の半分以上を占めるまで成長した。また樟脳も年を追うごとに輸出高が成長していった。しかしこの樟脳をめぐってイギリス商人と台湾人とが衝突。イギリスは軍事力を背景に威圧し結果、以下の協定が結ばれた。
協定の概要
●外国商人の台湾旅行を認める
●教会が被った損害を賠償する
●宣教師は全国で布教と居住の権利を有する
●内外人の紛糾は清朝官憲と英国領事の共同で裁判する


北部の発展
先ずは下の図を見てもらいたい。これは当時の茶 、糖 、樟腦の産地の分布図で黄色は茶葉、薄紫は樟脳、濃い紫は茶葉と樟脳、緑は砂糖を表す。需要の高まっている茶葉と樟脳が北部に集中しているのがわかる。

イギリスが最初の領事館を淡水に設置したように、当時台南(安平)は既に土砂が堆積し港としての機能が低下していたのに加え、茶葉と樟脳という主要商品が北部に集中していることもあり、淡水港や基隆港の取扱量はどんどん増えて行った。

出典:新北市立博物館
特に淡水は栄え、貿易高は一番多い年で全台湾の66%を超えた。こうして輸出が増える一方、輸入品で最も多かったのがアヘンだった。また台南に代わり発展していった打狗港では主に砂糖が輸出された。
アヘンという悪魔が台湾にやってくるのと引き換えに、台湾経済は世界システムに組み込まれていったのだった。

新興都市の発展
従来北部ではサツマイモやリュウキュウアイなどを生産していたのが、利潤の高い茶葉を栽培するようになった。そのような産業の変化は北部に多くの新興都市を生んだ。例えば大稲埕(現在の台北市大同)三角湧(現在の新北市三峽)は淡水河の運輸の中継地として栄えた。

出典:gotrip
社会の変化
キリスト教の再伝来
欧米列強の対外拡張に常について回るのが布教だ。もちろん台湾でも例外ではない。中でも台湾に大きな影響を与えた長老派教会の3名の人物を紹介したい。
長老派教会とは
プロテスタントのカルヴァン派の教派。イングランドではピューリタン、フランスではユグノーと各地で呼び方が違う。今でも台湾国内に於いて最大のキリスト教宗派


マクスウェル(James Laidlaw Maxwel)
医師宣教師のマクスウェルは台湾では初の西洋医院である看西街醫館(現新樓醫院)を建設した。

出典:四方通行
バークレイ(Thomas Barclay)
次に紹介するバークレイも拠点は南部だった。バークレイといえば当時低かった識字率を受けて台湾語をローマ字表記にすることを提案(白話字運動)。その一環として台湾府城教会報を発行(現在の『台湾教会公報』)。これは現在発行されている新聞としては台湾で一番古い新聞である。

出展:典藏臺灣

出展:ISSUU.com
台南神学校を創立したり、亡くなるまで60年に渡って台湾のために奮闘したバークレイ氏。台南には氏を紀念した公園もある。

出典:台灣好玩卡


マカイ(George Leslie Mackay)
北部を中心に活動したのが英領カナダ長老会で、中でもマカイが残した功績は大きい。先ずは医師としての功績だが、マカイは台湾全土(生蕃を含む)を周りマラリアの治療薬を処方したり、住民の虫歯を抜いたりした。抜いた合計本数は2万本以上に達したのだ。

出展:民報

また現在の馬偕醫院の前身である滬尾偕醫館も設立した。

出展:凱尼斯旅行社
次は教育者としての一面だ。マカイは北部台湾で初めての西洋式教育を行う学校である牛津學堂を設立(現在の真理大学)更にその二年後には女性教育のための学校である女學堂を創設し、台湾の女子教育のさきがけとなった。

出展:wikimedia commons
以上のように開港後、キリスト教とともに最新の西洋医学や学問が台湾にやってきたのだった。それらは台湾人にとっては福音そのものだったのかも知れない。
まとめ
従来は清朝の付属品でしかなかった台湾は開港した事により経済的価値が増していった。それは列強諸国による陣取り合戦が進む19世紀に於いて、良い面だけではなかったのだが。
今回のまとめ
✅開港した事により台湾経済は世界システムに加えられた。
✅新たな富裕層が生まれた。
✅キリスト教とともに最新の医療や学問が来た。
さて、意外に思われるかも知れないが、今回紹介したぐらいまでは清朝の消極的な経営はまだ続いていたのだ。ではいつ頃から積極経営に方針を変えたのか。とある国の民が漂流してきた事に端を発するのだが、それは次回に譲りたい。
