中華思想の清朝にとって台湾とは文化の及ばない辺境の地(化外の地)であり、統治にかかる費用やリスクなどの関係から元々は台湾を放棄しようとしていた。
しかし敵の手に渡る事を恐れた結果、しぶしぶ台湾をサテライトとして経営していたところ非公式に移住する人間が増え、経済的に豊かになっていったのだった。
そして時は流れて19世紀の中頃、その経済的な豊かさに加え、資源や地理的条件に目を付けた列強諸国が次々と台湾に手を伸ばし始めた。アヘン戦争やアロー戦争を経てついに台湾は開港されたが、清朝の消極的台湾経営は相変わらずだった。
ところがある事をきっかけに清朝は、積極的な台湾経営に乗り出す。それは、とある国からの漂流民がきっかけだった。




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御船の主と古見の主-沖縄民謡にみる台湾のターニングポイント-
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今回のポイント
✅台湾と沖縄は誰のもの?
✅明治維新後初の対外戦争がもたらしたもの
台湾を巡る物語、大きなうねりへ
一国二制度の台湾
ローバー号事件
開港後、その地理的、経済的な価値が国際的にも知られることになった台湾に、米国船のローバー号が暴風雨に遭い漂流。瑯嶠(現在の恒春)に上陸したところ現地のパイワン族に襲撃された。生存者はわずか1名だった。
アメリカは清朝に猛抗議するも埒があかなかった。というのも現地を実効支配する瑯嶠十八番社は生蕃であり、そこは清朝の実効が及ばない自治区のようなものだったからだ。
生蕃とは?
原住民のうち、教化され中央システムに加えられたグループを熟蕃、教化に従わないグループを生蕃と呼んだ。多くの場合、平地に住んでいた平埔族は熟蕃、山地に住んでいた高砂族は生蕃であった。

出典:臺灣記憶展覽

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台湾史入門⑦清朝時代Ⅲ‐台湾開拓に伴う諸問題‐
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これを受け、駐厦門領事のリゼンドル(ル=ジャンドル)は台湾に赴き、番界を超えて瑯嶠十八番社の頭目トーキトク(パイワン語:Cuqicuq Garuljigulj 英語表記:Tokitok)と直談判し、今後は遭難した米国船を助けるという海難救助に関する条約を結んだ。これはれっきとしたアメリカ合衆国と瑯嶠十八番社との国際条約であった。
以降、アメリカは航行権が担保され、瑯嶠十八番社はアメリカの報復を免れる形になったのだが、ここで一つの大きな問題が浮上してきた。それは
「清朝の実効支配は生蕃には及んでいない」
という謂わば一国二制度のような状態が浮き彫りになったことだ。
そしてこのローバー号の遭難は前述した「とある国からの漂流」のエピローグに過ぎなかったのだった。
牡丹社事件
琉球王国の立ち位置
事件の概要を紹介する前に、まずは当時の琉球王国(琉球国)を取り巻く状況について説明したい。
ご存じの通り琉球王国とは最大で沖縄本島、奄美大島、宮古島、石垣島などを版図に納める独立国であり、元々は明および清の冊封下にあった。


地の利を生かして貿易で栄えていた琉球王国に触手を伸ばしたのが薩摩藩だった。こうして琉球王国は清との冊封を続けながらも幕藩体制に加えられたのだった。



つまり琉球王国は独立を保ちながらも一方では清の子分、一方では薩摩の子分という二重体制を続けていたのだ。
どうしてこのような状態が続けられたのか。薩摩と清朝の本音に迫ってみよう


鎖国政策をとっていた日本に於いて、琉球が清朝と関係を続けることで、その利潤が狙えて且つ清朝と間接的に貿易ができる薩摩藩、そして事を荒立てたくない清朝の対面上の理由もあって、琉球王国は微妙な立ち位置で独立性を維持していたのだった。
しかし明治新政府になり、「このままじゃ不味いんじゃないの?」となったところに発生したのが以下の事件だった。
宮古島島民遭難事件
那覇へ人頭税を納めに行っていた宮古の船が帰りの際、暴風に遭い台湾南東岸の八瑤湾(現在の屏東県満州郷)に漂着した。

船上の69名中、3名が上陸の際に溺死。残り66名の生存者のうち54名が現地の高士仏社(生蕃)の原住民(パイワン族)に襲われ殺害されたのであった。そして12名の生存者は地元の漢人有力者に匿われ中国本土の福州へと移送された。これを宮古島島民遭難事件という。
そしてこの事件を巡って明治新政府と清朝との間で以下のようなやり取りがあった。(かなり脚色あり)





もちろん実際にはこんな会話ではなかったのだが、ここで浮き彫りになった部分を日本、清朝両サイドの立場になって要約すると…
日本の主張
✅琉球人は日本人
✅「化外の地」ということは台湾の生蕃は清朝の統治外の無主地域
清朝の主張
✅ぶっちゃけ生蕃はコントロールしにくい
✅琉球人は自国民と認識。もちろん原住民も。なのでこれは内政問題
そんな折、この事件を知ったリゼンドル(前述の駐厦門領事)が駐日アメリカ公使を通じて…

と進言。またロシアとイギリスとが争っているなか、両陣営に属していない日本はむしろ好都合だとの見解も。
台湾出征
この清朝側の「生蕃はコントロールしにくい」という部分が日本側に出兵の口実を与え、リゼンドルの進言が背中を押した形となり、ついに日本軍が台湾に上陸した。
と言っても実は明治政府内でも出兵をめぐり様々な意見の対立があった。その辺りの話は別の機会に紹介したい。



日本軍は上陸後、他の社(原住民部落)との交戦を避けるべく、この地を実質統治している瑯嶠十八番社(前述)を訪問し頭目トーキトク(これも前述)の息子に協力を仰いだ。

出典:ウィキペディア
これにより後顧の憂いを断った日本軍は一気に牡丹社と高士仏社に攻め入り屈服させた。この宮古島島民遭難事件と台湾出征の一連を指し「牡丹社事件」というのだが、ここまで読んでいただいて分かるように実際に殺害をしたのは高士仏社だった。しかし舞台が牡丹社であったため、このように呼ばれる事となったのだ。
日清の交渉
一方の清朝だが、まさか日本軍が攻め入るとは思ってもいなかった。その大きな理由は事前通告が一切なかったからだ。本来、戦争というものは外交の延長線上にあるので、始める際には通告が必要だった。それがなぜ行われなかったかと言うと、清朝側の例のセリフを思い出してほしい。

「化外の地」とはすなわち、そこが領土ではないことを暗に認めたに等しかったのだ。つまり日本の言い分としては

となるのだ。
この事態に慌てた清朝は沈葆楨を全権大使として台湾に派遣。ここに日本vs清朝の交渉がスタートしたのだったが、その沈葆楨、台湾の状況を見て一言。

さてここで今一度、両国の状況を整理してみよう。
日清両国の状況
日本
●思った以上に戦費がかさんだ。
●これ以上台湾に留まりたくない。
清朝
●新疆で反乱あり。いま日本とぶつかりたくない。
●急すぎて準備できてない。
●第三国に仲介してほしい。
少し補足すると、当初日本は台湾への出兵に際してアメリカから船を借りるつもりだったのが、貸してもらえず自前で準備することとなり、予想以上に戦費がかさんだ。そして日本側の被害状況なのだが、戦死者が12名なのに対して病没者は547名にのぼった。マラリアに関しては罹患率が270%、つまり平均すると1人が2.7回罹患するという、とんでもない状況だったのだ。
これは劣悪な衛生状況に加え熱帯の気候が原因であり、現地軍の士気の低下は甚だしいものがあったのだ。
ここで再度、両国の本音に焦点を当てると以下のようになる。
日清両国の本音
日本
●早く終わらせたい。
清朝
●早く終わらせたい。

早く出ていってほしい清朝と、早く出ていきたい日本。一見すると交渉はすぐにでも成立しそうなのだが、ひとつ大きな意見の相違があった。
日本の主張
✅今回の出兵は「自国民を守るため」という大義名分を認めて欲しい。
✅その上で賠償金が欲しい。
清朝の主張
✅無条件で出ていってほしい。
✅賠償金などもってのほか!
清朝からすると、内政問題だと思っていたのに勝手に攻めてこられた上、金まで請求されるのである。とうてい受け入れられる問題ではないのだ。それに加え問題は「賠償金」という名目だった。
「賠償金」とは戦争の当事者が払うものなのだが、先の会話を思い出してみよう。

日本側の主張はあくまで「他所の組のシマ行く」だったのだ。という事は清朝は当事者ではなくなる。この矛盾を清朝が突いたのだっだ。
この賠償金をめぐって交渉は難航したのだが、日本としては一刻の猶予もなかった。それは現場の士気が落ちていることに加えて、清朝に戦争準備をされると不利になるという危機感もあったからだ。
交渉が決裂しかかり、一触即発の事態になった時に事態が急変した。イギリスが介入してきたのだ。前回記事でもご紹介した通り、台湾開港後に進出してきたイギリス商社は多く、既に200社以上にのぼっていた。イギリスとしては自国の利益を優先させるために、台湾が戦場になっては非常に困るという事情があったのだ。
ここで日本側が提示した条件は先ほども紹介した通り、
①自国民を守るための出兵だった
②被害も出たので賠償金を払ってほしい
そしてこの②の要求額は300万ドル(200万両)だった。ここでイギリスを挟んで様々な交渉が重ねられた。詳しくは割愛するが、落としどころは「見舞金」として10万両を支払い、日本が台湾に滞在中に建設した道路や建物に対し「施設の譲渡費用」として40万両。計50万両支払うということで落としどころをつけたのだった。
ここで重要になって来る金銭の名目が「見舞金」と「譲渡費用」、つまり「賠償金」という言葉は使用されなかったのだ。加えて清朝側は金額の80%ダウンに成功させたのだったが、見返りに以後、日本人の安全を保障した。つまり生蕃への積極関与を約束したのだった。
こうして日本の台湾撤退が遂行されたのだった。一見すると交渉は清朝側に有利の条件で進められたように見えるが、一つ日本側にも大きな収穫があった。それは清朝が①「自国民を守るための出兵だった」の論点を認め、今後の安全を担保した事。つまり清朝が沖縄を日本の領土だと暗に認めた事になり、その後の沖縄併合へとつながったのだ。もっとも沖縄自身は、今までどおり独立国として清朝、日本の領国と関係を続けていきたかったのだが。
まとめ
手付かずだった生蕃。それによる一国二制度のような状態。そして台湾沿岸の無防備など、あまりにも消極的な台湾経営は列強に付け入る隙を見せた。その延長線上に起こった今回の牡丹社事件。これにより清朝は台湾経営を積極的なものにかじ取りしていくことになったのだが、いささか遅すぎたのかも知れない。次の統治政権が迫って来る足音は、もうすでに聞こえ始めていたのだった。
今回のまとめ
✅台湾は清朝と生蕃の「一国二制度」のような状態だった
✅台湾出征が後の沖縄併合に繋がった

