台湾の国際的な価値の上昇に対していまだ消極的な経営方針。その沿岸警備のもろさを突く形で迫りくる列強諸国。そこに日本の台湾出征が追い打ちをかけた。台湾の重要性を身をもって知った清朝は、牡丹社事件の全権大使として台湾に来た沈葆楨の

という建議を受け、台湾統治を積極的なものに転換し、実効支配と開発を進めたのだった。

今回のポイント
✅「首都」台北の原点。
✅最近まで使われていた「台湾省」という名称
積極的な台湾経営
1人目 沈葆楨

まずは沈葆楨の改革を羅列すると以下の通りだ。
沈葆楨の改革
①開山撫番
②台湾渡航禁令の廃止
③行政区画の整理
④洋務新政の調整


①開山撫番

開山
台湾東部の開発が遅れたのは南北を縦断する中央山脈があったからだ。前回の記事でもご紹介したローバー号事件や宮古島島民遭難事件も台湾東部で発生したもので、ここを実効支配するには交通の不便を解消する必要があったのだ。また茶や樟脳の産業を発展させる目的もあったのだ。
それに伴い北路、南路、中路という3本の道路を作った。

出典:中央研究院

出典:ウィキペディア

撫番
これら3本の道路はいずれも生蕃の居住地付近を通るので平行して行われたのが「撫番」だ。これは武力でもって原住民の漢化を迫り、「出草」と呼ばれる生蕃の武力抗争を放棄させるものだった。一方で番学という学校を作るなどもして、アメとムチを使い分けた。

②台湾渡航禁令の廃止
開拓には人手が必要なので、台湾渡航禁令を廃止し、開拓民を多く呼び寄せた。また封山とよばれる生蕃居住地への立ち入り禁止も排除し、漢人との通婚を推し進めた結果、原住民の漢化が進んでいったのだった。
③区画整理の調整
開港後の北部の発展を受け台北府を設置。また牡丹社事件を契機に恒春県を設けた。それ以外にも生蕃の多い地域に卑南庁や埔里庁を設け防備にも努めた。このようにして行政区画は2府8県4庁へと拡大した。

出典:slidesplayer.com
④洋務新政の展開

まずは「洋務」の部分から説明しよう。正式には「洋務運動」と言う。清朝末期ごろに起こった運動で、その趣旨はヨーロッパの最新技術を取り入れて自国を強くするというものだった。

なので「洋務新政」とは洋務を取り入れた新しい政治の事だが、ここでは3つのキーワードを通して沈葆楨による新政を見てみたい。
炭鉱
基隆の炭鉱では外国人技師を雇い、新式の工法による石炭の採掘が始められた。
軍備
安平と旗後ではそえぞれフランス人技師とイギリス人技師を招聘して洋式砲台を建設した。

出典:ウィキペディア
運輸
新式の輸送船を購入して台湾-福建間を運行させた。
まとめると沈葆楨の改革とは生蕃の漢化と防備の強化。石炭や樟脳、茶などの産業の発展。そして陸路や海路などの運輸の整備だったのだ。

2人目 丁日昌
1人目の沈葆楨は着任後一年足らずでで通称大臣に起用され台湾を離れたが、そのあとを継いだのが同じく洋務運動推進者の丁日昌だった。といっても在任期間が僅か5か月だったため、主だった建設は台南と高雄を結ぶ電信線の架設や移民を呼び寄せての東部開拓に留まった。
3人目 劉銘伝


ご本人から自己紹介もあったが先ずは時代背景からご紹介しよう。
清仏戦争と台湾省の設置
フランスはベトナムに進出し保護国としたが、宗主国を主張する清朝と衝突。これにより清仏戦争が勃発した。翌年フランスの軍艦が石炭購入を口実に台湾に上陸すると、清朝は劉銘伝を台湾に派遣し軍務を指揮させた。
その後、澎湖島が占拠されたり、台湾海峡が封鎖されたりもしたが停戦。この戦争の結果、清朝はますます台湾を重要視するようになった。そんな折、劉銘伝からの

という提言を受け、台湾は正式に福建省から分離した台湾省となった。

さて、この劉銘伝の改革は大きく分けて3つに分類できる。以下それぞれ見ていこう。
①行政改革
前記の台湾省設置以外にも統治強化のために再度行政区画を増やし、台南、台湾、台北の3府と台東直隷州を設置した(図3参照)
また改革の推進にあたり台湾省に直属する30余りの気候を創設、または再編成した。これらを機構のほとんどは、次に台湾を訪れる統治機構に引き継がれることになったのだった。

②土地改革
また劉銘伝は財政改革にも着手した。これは台湾住民による自己負担の原則にたった謂わば「現地調達主義」に基づいたものであり、その最たるは土地改革だった。
以前の記事でも紹介した通り、台湾の土地所有者は非常に入り組んで複雑だったために税の徴収がままならなかった事に加え、土地の測量自体も不正確なものだったのだ。
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台湾史入門⑥清朝時代Ⅱ‐民間先行の台湾開拓‐
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そこで先ずは人口の調査を開始。その際に保甲の再編成を行なったのだった。
保甲制度とは?
10戸を1甲、10甲を1保として住民を連座制のもとに管理する制度。甲と保にはそれぞれ甲長と保正という役職が置かれた。人口調査ならびに治安維持に役立ち、その制度は次の統治政権に引き継がれた。
人口調査を終えると納税を逃れている「隠田」の摘発や徴税制度の再編などを行なった結果、台湾の税収は大幅に増加し、それらを次に紹介するインフラ建設などに投資したのだった。
③洋務建設
劉銘伝の洋務建設は多岐にわたるが、ここでは代表的なものを7つ紹介しよう。
劉銘伝の洋務建設
①基隆-台北間の鉄道を敷設
②台湾-福建間に電信ケーブルを敷設
③新式郵便制度を創設
④機器局の開設による武器製造
⑤西洋式教育を施す西学堂や最新の電信技術が学べる電報学堂を設置
⑥炭鉱の採掘
⑦電灯の設置

他にも省都を今の台中に置く計画を進めていたが財政の逼迫により準備が遅れ、巡撫は暫定的に台北に駐在することとなった。
以上のように独立採算制のもと行なわれた劉銘伝の各種の改革は、半ば自治区のような土地であった台湾の、その後に繋がる礎を築いたのであった。
おまけ 卲友濂

この邵友濂は上記3名とは正反対に、かなり消極的な台湾経営をおこなった。というのは「独立採算制」とはいうものの、あまりに急進的すぎた劉銘伝の改革により、台湾はいわば債務超過の状態に陥ってたからだ。
劉銘伝時代のいくつかの改革を廃止した邵友濂であったが、とりわけ重要になってくるのは省都の台中設置の廃止だ。前記の通り劉銘伝は省都を台中に設置する計画だったが邵友濂は経済的理由により計画を廃止。かわりに台北府城が建設されていて且つ経済的に発展していた台北を省都に定めた。
なぜ北部の経済が発展したかについては以前の記事でも紹介したが、
①開港して世界経済に組み込まれたこと
②そんな中で石炭、樟脳、茶の需要が高まったこと
などが挙げられる。そしてこれらは北部で生産され、北部の港から世界に向けて輸出されていたのだった。
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台湾史入門⑨清朝時代Ⅴ‐列強の波、再び‐
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さて、そんな邵友濂が劉銘伝時代の負の遺産の処理に追われている頃、朝鮮半島を巡り母体である清朝と「とある国」が衝突。それは過去最大級の波となり台湾を飲み込んでいったのであった。
まとめ
約190年にも及んだ台湾の消極的経営は、列強諸国の付け入る隙を生み、ついに清朝は重い腰を上げ台湾を積極的に経営していく事となった。沈葆楨、丁日昌、劉銘伝という3名の洋務派による改革により政治と経済の基盤が確立され、ますます「美麗島」としてその価値を上げていった台湾であったが、その改革はたった20年で終焉を迎えることとなった。
今回のまとめ
✅3人の洋務派によって台湾の今につながる礎が築かれた。
✅台湾省として分離独立することで独立採算制がとられた。
✅予算の都合で台中への省都移設は見送られ、かわりに経済的に発展していた台北が省都となった

