突然だが、まずは以下の風刺画を見て頂きたい。

いわずと知れたビゴーの風刺画で、朝鮮半島という魚を狙う日本と清朝。そしてそれを隙あらば奪い取ろうと橋の上から見ているロシアが描かれているものだが、実は台湾にも関係がある事はご存じだろうか?


今回のポイント
✅日清戦争の結果、台湾が割譲された理由。
✅アジア初の共和国『台湾民主国』
✅台湾人アイデンティティーの萌芽
日清戦争
朝鮮半島をめぐる情勢
切り崩される清朝のサテライト国
もともと清朝は周辺国家と宗主国-従属国という主従関係を結んでいたのだが、清仏戦争や牡丹社事件などで次々と従属国を失っていったのは前回までの記事でも紹介した。
そんな中、最後まで従属国として残っていたのが李氏朝鮮だったのだ。
従属国か自主国か?
朝鮮を従属国として残したい清朝に対し、朝鮮を独立国とみなしたい日本。というと聞こえはいいが、日本の思惑としては清を朝鮮から排除して自分たちの影響力を高めたかったのだ。そして騒いでいるのは外野だけではなかった。朝鮮国内でも清朝派と日本派が対立してゴタゴタしていたのだった。
天津条約


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お互いに正面衝突は避けたかった清と日本は天津条約を締結。それは「どちらかが朝鮮半島に出兵するときは事前に通知しようね」という内容だった。
甲午農民戦争
そんな折に起こったのが甲午農民戦争だった。これは東学党という宗教団体と農民が手を結んだ大規模な反乱で、朝鮮政府はそれを鎮圧できず清朝に助けを求めたのだった。
朝鮮からの救援要請を受けた清朝はただちに出兵。ここで前記の天津条約に基づき日本に通知したところ、日本も居留民の保護を名目に朝鮮へ出兵。反乱自体は収まった、というより朝鮮政府が一方的に農民たちの要求をのむ形で収束したのだったが、清朝と日本は朝鮮の首都である漢城でにらみ合ったまま撤退しなかった。
日清戦争と下関条約
日清戦争勃発
もはや衝突が避けられない状況になった両国は交戦を開始。ここに日清戦争が勃発した。戦争は終始日本側が優位にすすめ、朝鮮半島、遼東半島などを占拠し日本の勝利に終わった。
下関条約
日本側の代表者は伊藤博文、清朝側の代表は李鴻章で戦争を終結させる講和条約が締結された。本来の名称は日清講和条約なのだが、山口県下関市で結ばれたことから下関条約と呼ばれている。

出典:ウィキペディア

またこの時に交わされた条件は以下の画像がわかりやすい

そう、これにより台湾の「割譲」が決定されたのであった。

そもそも何故台湾の割譲なのだろうか?それはこの人の提言が大いに関係している。

そう、ローバー号遭難の際に瑯嶠十八番社の頭目トーキトクと直接交渉をした駐厦門領事のリゼンドルだった。

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このリゼンドル、宮古島島民遭難事件の際には外務省顧問に就任していて、このように提言していたのだった。

大日本帝国の外交政策は、この際のリゼンドルの提言に大きな影響を受けていたので、下関条約においても台湾の割譲が条件に出たのだった。
台湾の抵抗-アジア初の共和国の成立-
台湾の状況とフランスの野心
一方その頃、台湾巡撫が邵友濂から唐景崧へと変わっていた。

日本への台湾割譲が知れ渡ると官吏や士紳は撤回を求めたが果たせず、最後の望みをかけ「台湾民主国」の成立を宣言。またフランスの支持を受けようとした。
フランスは元々台湾に野心を寄せていて、日清戦争の際にも清朝政府に

と提案していたこともある。

そして講和条約の締結後も日本の台湾領有を阻止するために台湾への派兵を計画していたが、そのころマダガスカル島でゴタゴタが起きて断念もしていた。
列強の野心はあるものの、アメリカ独立の際にフランスの援助を受けていた実績もあり、当時の「台湾人」は大いに期待したのだった。
こうして巡撫の唐景崧を初代総統とするアジア初の共和国「台湾民主国」が成立した。
台湾民主国の成立
概要
こうして成立した台湾民主国。以下はその概要だ。
台湾民主国の概要
初代総統 唐景崧
司令官 邱逢甲
大将軍 劉永福
年号 永清
国旗 藍地黄虎旗

出典:REDDIT
「永清」という年号に加え、国旗も清朝のものが龍だったので虎にしたように、台湾民主国は清朝に対し尊敬、というよりは今後も清朝の一部であり続けようとしていたのであった。

出典:ウィキペディア
台湾民主国の崩壊

以下は台湾民主国の年表で、いつを以って崩壊とするかは議論が分かれているが、最速だと唐景崧総統が逃亡した6月4日になり、10日間しか続かなかったことになる。但し一般的には10月21日の日本軍台南入城を以って「崩壊」とする場合が多い。この一連の闘いを乙未戰爭(いつびせんそう)と呼ぶ。
”台湾民主国年表”
5月25日 「台湾民主国」独立宣言。
総統に唐景崧就任。
年号を永清と改元
5月29日 近衛師団台湾上陸
6月4日 唐景崧が公金を横領し
中国に逃亡
6月7日 近衛師団、台北入城。
丘逢甲が公金を横領し逃亡。
6月26日 劉永福が総統に就任
8月28日 彰化八卦山の闘い
10月19日 劉永福が中国へ逃亡
10月21日 日本軍台南入城
11月18日 台湾総督府による
全島平定宣言が出される
抵抗する者、受け入れる者
日本という外来の政権がやって来た際の台湾島民の反応は様々で、島民一丸となって抵抗したわけではなく、受け入れる人や進んで協力する人もいた。
そのような人たちを「裏切者」と切って捨てるのは簡単だし、残念ながら歴史学会にすら、そのような言説を弄する人もいるのだが、抵抗した人にも受け入れた人にも、それぞれが思い描く未来と、いま見えている現状があったことは否定できない。
特に台北入城と台南入城は象徴的な出来事だった。
台北入城
台湾民主国の相次ぐ敗戦の知らせや唐景崧総統の逃亡などで混乱した台湾。さらには敗残兵が略奪などを行なった結果、台北は混乱を極めたのだった。そんな中、秩序を回復させるべく日本軍に直接交渉を行なった人物がいた。鹿港出身の辜顕栄だ。当初スパイの疑いをかけていた日本軍も、辜の案内により台北に無血入城を果たしたのだった。

出典:撿拾破碎的歷史碎片
台南入城
南下してくる日本軍に逃亡する劉永福大将軍。混乱する台南を代表して、以前ご紹介したイギリス人医療宣教師トーマス・バークレイが日本軍と交渉、ここでも日本軍は無血入城したのだった。


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「台湾人」の抵抗
さきの年表のとおり、近衛師団が台湾に上陸して6日後には総統の唐景崧が、そして9日後には司令官の邱逢甲がそれぞれ公金をネコババして中国に逃走している。


ただし逃げるべく人間が逃げたあとに、台湾人による本当の抵抗がはじまったのだ。
先の年表でもわかるとおり、台北入城から台南入城まで、実に4か月半以上も費やしたのは、その間に様々な交戦があったからで、中でも八卦山の戦いなどは熾烈を極めた。
一連の戦いに日本は約76000人の兵力(軍人約50000人、軍夫26000人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫約7000人の死者(死因不明)を出した。この病死者の多さが、後に上下水道の設置や病院の開設などに繋がったのだった。
「台湾人」アイデンティティーの萌芽
日本という外敵が現れたことで、台湾人としての民族精神が喚起されたことは特筆に値するだろう。
もともと原住民たちが住んでいたこの土地に漢人達が入植してきたのだったが、両者が手を結ぶことがなかっただけでなく、同じ漢人でも出身地で別のコミュニティーを形成し分類械闘と呼ばれる衝突を繰り返してきたことは以前の記事でも紹介したとおりだ。
しかし一連の抵抗の中、台東の原住民約700名が、西部の漢人たちと手を結び戦ったのだった。皮肉なことに清朝から分離された事により、台湾の有史以来はじめて「台湾人」という新しいコミュニティーが誕生しつつあったのであった。
まとめ
思えば全ての始まりはローバー号が遭難したことだったかも知れない。いずれにせよ豊潤な大地を有し、重要な貿易中継地点である台湾は、日本列島の延長線上に位置することもあり、日清戦争の結果、日本の版図に加えられることになった。かつてのオランダ政権と違う点は、約210年間に及ぶ清朝統治時代に漢人の人口が爆発的に増え、またその後の開拓や開港、行政改革を経て「ひとつの国家」として形成されつつあったことだった。
それ故に外来政権への抵抗はオランダ時代とは比べものにならないほど大きいものになり、またバラバラだったコミュニティーに再編成の動きが出始めた。
ここにかつての分類械闘や漢人vs原住民の構図は崩壊し、「日本人vs台湾人」という新たな構図が浮かび上がってきたのであった。
今回のまとめ
✅台湾の地理的重要性が日本への割譲という形になった。
✅かつてのコミュニティーに再編成が起き、ひいては台湾人アイデンティティーの萌芽へと繋がった。

