

今回のポイント
✅統治政策決定の背景。
✅3段階の統治政策の概要
台湾接収時の背景
近代日本にとっては初の植民地となった台湾。その経営方針を巡っては色々と紛糾したが、先ずは当時の背景について紹介しよう。
止まない抵抗
台湾共和国は崩壊したものの、いまだ抵抗は続いていた。このような抗日ゲリラの行動範囲は全台湾に及んだが連携はとれておらず、圧倒的な日本の軍事力に次第にその抵抗は抑えられていった。

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台湾史入門⑫日清戦争と台湾民主国
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特殊統治か内地延長か
日清戦争にて台湾を割譲されたはいいが、なにせ初の植民地なのでどのように経営していいか分からない日本政府。具体的には以下の2つの案があった。
①日本の一部とし、本国の法律を適用する内地延長型
②内地とは異なる属地とする特殊統治型
結果的には台湾共和国崩壊後も続く抗日に対処するため、②の特殊統治型を採用することになり、行政トップの台湾総督には武官を充てることにした。そしてそれに伴い可決されたのが法律63号(六三法)だった。

六三法と土皇帝
六三法の特徴は一言で言えば台湾総督への権力集中だった。これにより台湾総督は頻発する抗日に対し迅速に対応することができたのだ。
台湾総督に与えられた権力
✔軍事権
✔行政権
✔立法権
✔司法権
✔財政権

その権力の集中ぶりはまさに皇帝のそれであり、台湾に君臨する『土皇帝』と呼ばれるほどであったのだ。しかし逆に言うと、権力を集中させないと収まらないほど抗日運動が激しく、一時は台湾をフランスに売却する案が出たほどであった。
植民地政策の転換
割譲当初は特殊統治型を採用した台湾統治だったが、その後、時勢の影響を受け2回転換している。ここでは日本や台湾を取り巻く背景と共に変化していった3段階の植民地政策について紹介したい。
植民地特殊統治(1895-1919)
前述のとおり、頻発する抗日活動に迅速に対応する必要性から、六三法を制定し台湾総督に権力を集中させたのだが、その結果としてアンタッチャブルになってしまった土皇帝やその周辺に対する反感が現地の台湾人はおろか、日本人にまで広がっていった。
それを受けて今度は法律31号(三一法)が可決され、総督府の立法権が制限されるようになったのだが、それは六三法と比べての話で、大日本帝国憲法の範囲外であることには変わらなかった。


内地延長主義(1919-1936)
ちょうど第一次世界大戦が終了した頃、国際的にはソビエト政権やアメリカのウィルソン大統領が提唱した民族自決の波が世界を覆い、国内的には大正デモクラシーの熱が増していた。
このような情勢下で帝国主義的植民地を持ち続ける事が困難になっていた事に加え、もともと早くから文官出身の総督による内地延長主義を主張していた原敬が首相になり、台湾経営は一気に舵を切ることになった。
そして三一法に代わり制定された法三号により、日本本土の法律が台湾にも適用されることになり、台湾統治の政策は植民地特殊統治から内地延長主義へと移行したのだった。
皇民化運動(1936-1945)
内地延長主義により同化政策が進められた台湾だったが、1936年以降になると迫りくる東アジアの戦争に備え、再度武官を総督に任命し皇民化運動を展開していった。これにより台湾人の更なる日本人化を進め、戦時体制下での動員準備も進められていった。
まとめ
以上見てきたとおり日本の台湾統治政策は3段階に分かれていたが、結果として徐々に台湾人を日本人に同化していったのだった。そしてそれらは全て日本にとっての都合であったことを忘れてはいけないだろう。
今回のまとめ
✅台湾統治政策は①植民地特殊統治②内地延長主義③皇民化運動 と3段階に分かれていた

