前回の記事では3段階に分かれていた植民地政策について紹介したが、今回からはその1段階目。植民地特殊統治の時代のお話を紹介したい。
今回のポイント
✅生物学的植民地経営とは?
✅一石三鳥のアヘン政策
✅緩急織り交ぜた治安政策

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台湾史入門⑬日本統治時代Ⅰ-植民地政策の3つの段階-
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初期の植民地特殊統治
日本による台湾統治は台湾人たちの武力抵抗に対する鎮圧から始まった。初代総督の樺山資紀、二代目の桂太郎、三代目の乃木希典にとって、台湾統治とはすなわち抗日ゲリラの鎮圧に他ならなかったのだ。
相次ぐ抗日ゲリラ
台湾民主国崩壊後も各地で抗日運動は続いた。以下いくつか紹介したい。
北部騒乱事件
台湾民主国の項でもご紹介したとおり、日本軍は北部の基隆より上陸し、反乱軍を制圧しながら南下していった。したがって北部は早いうちに制圧されていたのだが、それでも各地で抵抗を続けていた台湾義勇軍は陳秋菊をはじめとする指導者の下に組織化され始めていた。

引用:ウィキペディア(中国語版)
そして1996年の1月1日、新春で日本軍が油断している隙を狙った一斉蜂起が計画されていたが一部の義勇軍が先だって蜂起。これによって足並みがそろわずに蜂起せざるを得なくなったのだが、それでも抵抗は北部一帯に広がり、1月12日になりようやく制圧された。
雲林騒乱事件
その後しばらく大きな騒乱事件は起きなかったのだが、今度は中南部の雲林で大きな騒乱が起きた。もともと雲林は清朝時代から官憲の力があまり及んでいない地域で、簡義や柯鉄らはこの地を『鉄国山』と称し、中央からの独立体制維持を呼号した。この点は清朝復帰を呼号した北部騒乱との大きな違いである。
これに呼応する形で1000人以上の住民が蜂起し、総督府は台中から一個連隊を送り鎮圧に乗り出した。その際に焼夷作戦が展開され犠牲者は6千人から3万人とも言われている。
日本軍によるあまりに行き過ぎた行動は香港メディアなどに『雲林大虐殺』と報じられ、世界中から非難を受けることとなり、当局関係者は処罰され、また被害者には補償が支払われた。
三段警備の制度
三代目総督の乃木希典は相次ぐ抗日ゲリラへの対策として三段警備を打ち出した。これは台湾を3つの区画に分類し、もっとも情勢不安な山岳部を陸軍部隊と憲兵隊が、山岳部と平野部の比較的安定している地域を憲兵隊と警察が、そしてもっとも治安が安定している都市部を警察が警備する制度で、陸軍と警察の対立を解消し命令の一元化を図ったものだった。
三段警備の概要
山岳部(もっとも危険)
…陸軍部隊と憲兵隊
山岳部と平野(比較的危険)
…憲兵隊と警察
都市(比較的安全)
…警察のみ


児玉・後藤体制前夜
乃木総督の辞任
清廉潔白が招いた罷免騒動
統治され僅か一年ちょっと程で、台湾はすでに利権の温床となりつつあった。そんな中、三代目総督乃木希典はこれを解決すべく司法機関に要請。これを受け台湾総督府高等法院長の職にあった高野孟矩は片っ端から不正を取り締まったのだが、あまりにも厳格過ぎてその捜査は総督府中央にまで及んだ。
相次ぐ汚職疑惑の噴出に驚いた日本政府。このままでは台湾総督府の権威が失墜すると心配し、乃木に高野を罷免するよう指示、これを不服とした高野と乃木とが対立し、高野を支持する形で台北地方法院と新竹地方法院の両院長が離職するなど混乱を招いた。
これを内地の新聞が報道したことから政府は大きな非難にさらされ、乃木総統への風当たりも強くなった。その結果、乃木総統は総督辞任を余儀なくされたのだった。
児玉源太郎と後藤新平
もともと乃木を総督に推挙したのが陸軍次官の児玉源太郎だった。児玉はその責任を取る形で第四代総督に就任した。そして児玉が自らの右腕として民生長官(総督補佐で事務方トップのポスト)に指名したのが後藤新平だった。

出典:国立精華大学
もともと医者だった後藤は、日清戦争終了時に臨時軍役部長であった児玉の下で事務官長を務めていた。ここで二人は互いに認め合う仲になっていた事に加えて、後述するアヘン問題に於いて後藤が提出した「台湾島阿片問題二関スル意見書」などもあっての人事抜擢であった。
後藤新平の台湾改革
総督府はすでに第二代総督の時代には非常時行政組織から平時行政組織、つまり民政に戻されていたのだが、まだまだ軍部の力は強かった。
民政形態の完成
後藤がまず着手したのは人員整理だった。後に述べる生物学的植民地政策を推し進める後藤にとって、台湾を理解していない官吏は必要のない人材だった。従って内地から優秀な人材を呼び寄せる一方で、大量の人員を帰国させ、これまで煩雑だった行政機構を簡素化したのだった。
まだまだ軍部の力が強かった総督府に於いて、後藤の改革は民政部が軍部を抑えるという真の民政組織の形を完成させたのだった。そしてそれを見守っていたのが児玉総督だったのだ。

後藤による生物学的植民地政策
生物学的植民地政策とは
後藤の政策は一般的に『生物学的植民地政策』と呼ばれている。これは後藤が言った以下の言葉に起因する。

ヒラメの目を台湾。鯛の目を日本に置き換えてみよう。いくら鯛の目のように両側についているのがスタンダードだと思っていても、ヒラメの目を無理やり両側につけると支障をきたす。つまり日本のやり方(鯛の目)を台湾(ヒラメ)に押し付けても必ず軋轢が生じるので、先ずは台湾の慣習を理解し、その上で統治していかなければならないという持論だ。


調査事業
以上の信念にのっとり後藤は台湾を徹底的に調査していき、またその調査結果に基づき様々な政策を実行していった。以下いくつかの調査事例を紹介しよう。
土地調査
かつて劉銘伝が洋務運動の一環として土地調査に手をつけたことはあったが、結局完成には至らなかった。


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従って台湾全島の詳しい地図もなければ正確な耕地面積も不明だった。後藤の指示のもと「臨時台湾土地調査局」が設けられ、六年間にわたる調査が行われた結果、耕地面積はこれまで予想されていた30万甲を大幅に上回り、田が31万3700甲、畑が30万5600甲で合わせて約62万甲になり、地租徴収の基礎になった。
また調査に際して、日本国内でも用いられてなかった最新の三角測量法が導入された結果、台湾全土の正確な地図が作成されたのだった。
慣習調査
総督府内に「臨時台湾旧慣調査会」という特別機関を設け、台湾の慣習調査に乗り出した。この調査会により台湾社会の私法的慣習が調査され、その後の立法の際には参考にされた。
戸口調査
そして台湾史上で最初となる全面的な戸口調査も行なった。それにより台湾の人口はおよそ304万人であることがわかった。内訳は以下の通りだが、当時はまだ原住民の居住区を掌握していなかったので、その点には留意しなければならない。
人口の内訳
台湾人…約298万人
日本人…約57000人
外国人…約1万人
また台湾人の内訳は
閩南人…約249万人
客家人…約40万人
平埔族…約5万人
高山族…約4万人
用語解説
閩南人は中国南部から台湾へ渡って来た漢人。
客家人も同じく中国の南部から渡って来たが、独特の文化や言語をもつ人たち。
平埔族は平地に住む原住民で高山族は主に山地に住む原住民。共に民俗学的にはオーストロネシア語族に分類される。

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またこの戸口調査では年齢、性別、使用言語はもとより、職業、アヘン吸引や纏足の有無なども調査され、後述するアヘン政策に大いに役立った。
以上の調査は①土地関係の理解②その土地に住む人の属性の理解③その人が取り結ぶ社会関係の理解 という三点セットの調査であり、生物学的植民地政策のみならず、その後の政策の施策の基礎となった。
土地改革
三点セットの調査に基づき、様々な改革がなされた。先ずは土地改革についてだ。以前の記事でもご紹介したとおり、台湾の土地の保有制度は「一田多主」と呼ばれる大変複雑なものだったが、後藤はここにもメスを入れた。大租戸に補償金を支払うことで土地から手を引かせ、小租戸を地主とする近代的な土地保有制度を確立したのだった。


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保甲制度の利用
警察組織の拡大に伴い、利用したのが清朝時代に基礎が出来ていた保甲制度だった。少し復習すると保甲制度とは十戸を一甲、十甲を一保とするもので、保には保長、甲には甲長が置かれ全島の住民を横割り的に組織化したものだったが、これを警察の管轄下におき連座制、相互監視、相互密告を強化し抗日ゲリラ参加者を未然に防いだり、摘発したり。他にも住民への伝達や伝染病の予防、はては橋の修繕などにも効果を見た。言い換えると江戸時代の五人組のような制度にしたのだった。




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阿片政策
台湾統治初期に於いて台湾総督府の頭痛の種は、度重なる抗日ゲリラとアヘン吸引の悪習だった。そもそもアヘンの吸引はオランダ統治時代からのもので、バタビア(今のジャカルタ)の華僑から始まったものが台湾に持ち込まれ、やがて台湾から中国本土に伝わったとする説もあるほど古くからのものだった。
この悪習が国家を衰退させるのは先のアヘン戦争を見ても周知の事実であり、総督府としては早急に手を打たなければいけない課題だったのだが、それまでは「厳禁論」と「非禁論」、つまり厳禁にするか放置するかで意見が真っ向から衝突していたのに対し、一歩一歩ゆっくり禁止にしていく「漸禁論」を唱えたのが、当時日本政府の内務省衛生局長を務めていた後藤だった。
阿片政策自体は前任の乃木総督時代から始まっていたが、当時はまだ中央集権体制が整っていなかった為に実効はなく、発案者である後藤の時代になってようやく本格的に実行にうつされたのだが、後藤のアヘン政策とは一言で言うとアヘンの免許制ならびに専売制だった。

専売制とは総督府の管轄下においてアヘンの販売を許可することで、免許制とは現在アヘンを吸引している者にのみ購買免許を授与するものであった。以下はそのメリットだ。
免許制
台湾人にとって「総督府はアヘンを禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金にもなっていたが、免許制にすることで、これらの危機感を減少させ抗日運動を抑える働きがあった。またアヘン免許は再発行されなかったので、すでにいる常用者が死亡するに従い、アヘン吸引者も減っていくという漸近的な廃止を可能にした。
専売制
専売制によるもっとも大きなメリットは財源確保だった。またアヘンの仲売人・小売人への営業特許権付与を通じて、台湾人の中に「御用紳士」と呼ばれる協力者を作り出し統治体制に組み込み、いまだ抵抗を続ける抗日ゲリラの対策に協力させた。
以上のように後藤のアヘン政策は財政・治安・行政の一石三鳥の効果をあげたのだった。
拡大する警察権力
とにもかくにも治安維持が喫緊の課題であった統治前期。ここではその一端を担う警察権力の拡大について見ていこう。
三段警備の廃止
乃木総督時代に導入された三段警備が廃止されたのは2つの理由からだった。1つは、そもそも区分け自体にあまり意味がなく、陸軍、憲兵、警察とでうまく連携がとれなかった事、そしてもう1つは保甲制度の利用に取って代わられた事からだった。
多様化する警察の任務
かくして後藤は三段警備を廃止し、警察による治安維持の一元化を実現させた。そして警察制度を改革し、各地に大量の派出所を置き治安維持にあたらせた。その結果、警察の権力は増大し、民衆から「大人(ダーレン)」と呼ばれるほどになった。


出典:痞子邦
またその任務は大変広い範囲に及んだ。以下紹介するのは警察の任務を「確認事項」と「注意事項」に分けたものだ。以下に広範囲に及んでいたかわかるだろう。
確認事項
①保甲、壮丁団の状況 ②法律、命令の実施状況 ③宗教、風俗の調査 ④公衆衛生の状況 ⑤禁制品の取り締まり ⑥監視対象者の調査 ⑦道路、橋梁、鉄道の状況 ⑧電信、電話の故障の有無
注意事項
①警らの線路には重要な集落や交通のハブになる所を含めて、巡回票に時刻を記入したうえで押印する。
②保甲の一覧表をチェックし、警邏の印を押す。
まとめ
後藤の生物学的植民地政策は、その後の経済発展の礎となった。その要因はいかの通りだ。
①治安が維持され軍事費の節減になった。
②土地調査により税収があがった。
③アヘン政策により税収があがった。
こうして得られた財源をインフラに投資することで、後の経済発展へと繋がっていったのだが、それはまた次回ご紹介したい。
今回のまとめ
✅生物学的植民地政策とは台湾を調査した上で、その風土に合わせて行われた政策だった。
✅それらの政策は台湾の財源を確保し、後の経済発展へと繋がった。

