
前回は生物学的植民地経営を主に治安維持の方面からご紹介したので、今回は経済の方面からの話をしたい。
今回のポイント
✅経済が発展する条件とは?
✅台湾のインフラ建設
✅昔の5千円札の人。新渡戸稲造と台湾

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台湾史入門⑭日本統治時代Ⅱ-生物学的植民地経営-
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経済発展の基礎作り

経済が発展するのに必要な条件
ここではヨーロッパの歴史をケースとして、経済が発展するための条件について紹介していきたい。
経済発展の条件①
安定した社会
これが一番重要!安定した社会でないと人口も増えないし、なにより生産活動や商業などが栄えなくなる。ヨーロッパにおいてはキリスト教を背景とした共同体が地域社会の安定をもたらし、後の発展へと繋がった。
経済発展の条件②
優れた徴税システム
聖書を読んだ方の中には、なぜ徴税人があれほど嫌われているのか理解できなかった人も多いだろう。当時ローマ帝国では徴税システムがうまく機能しておらず、地元の有力者に徴税を請け負わせていた。言い換えると一定の金額を納めるだけで後は徴収した分が全て自分のものになったので、かなり苛烈に取り立てていて、民衆からは蛇蝎のごとく嫌われていたのだった。


一説にはローマ帝国崩壊は徴税システムがうまく機能しなかった為とも言われいる。それぐらい徴税というのは国家にとっては大切なことなのだ。
経済発展の条件③
中央銀行の創設
イギリスに産業革命が起きた理由のひとつに、イングランド銀行の存在がある。当時ヨーロッパの国で中央銀行を有したのはイギリス一国だったのである。中央銀行があることにより他の国より早く、そして安い利子で融資を受けられるのは経済発展には欠かせない条件なのだ。
経済発展の条件④
交通と物流
オスマントルコが栄えたのも、大航海時代を迎えたのも、すべては香辛料の物流ルートが原因だったのは有名な話で、交通・物流の発達は経済発展にとって、なくてはならないものなのである。
経済発展の条件⑤
技術革新
産業革命でイギリスが世界をリードしたのは言うまでもないであろう。
経済発展の条件⑥
優れた製品
イギリスが綿製品、ドイツやアメリカが工業品で経済大国になったのを見ても、優れた製品を生み出し海外に売ることは経済発展において必須条件なのである。
インフラ整備と経済発展の基礎作り
以上見てきた条件を踏まえて、後藤が打ち出した政策を見ていくと如何に理にかなっていたかが理解できるであろう。
条件① 安定した社会
戸口調査による不穏分子の洗い出しと予防、アヘン政策を通した御用紳士の育成、そして保甲制度の利用や警察制度の充実で治安維持に努めてきたのは前回もお話したとおりである。
またこのころ総督府は抗日ゲリラの投降を奨励し、投降準備金を支給したうえで「帰順式」を設け、また仕事のあっせんなどもした。更には80歳以上の高齢者を「饗老典」(高齢者を慰労する式典)に招いたり、読書人や詩人の集いを開催し、地元の有力者には勲章を授けるなどアメを与える一方で、抵抗勢力には容赦ないムチで挑んだ。
こういった政策が功を奏し、大きな抗日行動は日増しに少なくなっていったのだった。
また他にも内地から医者を呼び寄せ台湾各地に入植させる「公医制度」により、地域住民の診療はもとより衛生観念の教化に努めたり、東京市でもまだ完備されていなかった上下水道を作るなど、衛生方面にも力を入れて、安定した社会を築いていったのだった。
条件② 優れた徴税システム
土地調査において三角測量機を導入し正確な地図を作製する一方で次々と隠田を整理していった結果、当初見越していた田畑よりの倍ほどの耕地面積が洗い出せれ、その分税収もアップした。更には大租戸を整理したことで徴税がスムーズに行われるようになったのも前回お話した通りだ。
そして特筆すべき点は後述する貨幣の統一により、従来の穀納から貨幣納へと改めたことだ。この納税制度の近代化に伴い、他の物品にも税金がかけられるようになり、税収は大幅にアップしたのだった。
条件③ 中央銀行の創設
台湾銀行が創立された事により、後述するインフラ整備の際に必要な事業公債が格段に調達しやすくなった。
また台湾銀行券が発行された事により、日本が台湾を領有する以前に使用されていたはメキシコ・ドルに取って代わり、紙幣が流通するようになった。貨幣に比べて持ち運びしやすい紙幣の流通は、台湾での商取引を爆発的に拡大させたのだった。

出典:ウィキペディア

出典:戦前台湾の品々
条件④ 交通と物流
港湾の増改築
南北を横断する南北縦貫鉄道の建設は喫緊の課題であったが、一つ大きな問題があった。それは資材の搬入をどうするかだった。鉄を除き大半は台湾で手に入るものの工事現場までの運搬手段がなかったのだった。
従って資材の大部分を内地もしくは外国から運ばなければならなかったが、当時大型船が入港できる港は基隆港と高雄港しかなく、その二か所も膨大な資材を陸揚げする設備は整ってなかった。
そのため基隆港と高雄港と増改築して海外との海上交通の向上をはかる必要があったのだった。

出典:日本時期的高雄港

南北縦貫鉄道建設
鉄道敷設の前に立ちはだかっていたのは資材運搬だけではなかった。他にもゲリラの襲撃やマラリア、ペストなどの疫病、河川の多さや地質の悪さに人手不足など、様々な問題に直面していた上に、日露戦争が発生し鉄道資材が不足する事態にまで陥ったのだった。
以上のような問題を一つずつクリアしていき、着工より9年たって基隆-高雄間約400キロが開通した。因みに清朝時代に敷設されていた基隆-新竹間の約100キロは、僅か8キロだけが利用された。




出典:ウィキペディア
またその後、台湾鉄道は東側にも敷設されていった。

出典:ウィキペディア
条件⑤ 技術革新
台湾はサトウキビの産地であったが、製糖技術は旧来のものであった。そこで後藤は内地より専門家の新渡戸稲造を呼び寄せるなど、製糖技術の革新と施設の近代化に努めた。

また他にも蓬莱米の育成にも力を注いだが、こちらが実を結び始めたのは昭和に入ってからだった。
条件⑥ 優れた製品
砂糖、に茶、米は台湾が誇る三大作物になり、特に砂糖は全輸出品の約50%を占めるほどにまで成長し、日本はもとよりヨーロッパなどに輸出された。
製糖業がここまで成長した理由には技術革新以外にも、土地調査で発覚した無主地を日本企業に払い下げ大規模な工場を建てた事や、鉄道や港湾の整備により流通網が完成した事などが挙げられる。つまり上記の条件①から⑤を満たした結果としての事であった。
まとめ
児玉総督と後藤長官の在任中、台湾経営は多くの成果をあげることになり、1905年度からは日本政府による補助金を辞退するまで経済状況が好転した。つまり領台10年にして台湾は日本から経済的独立を果たしたのだが、それも全ては上記で挙げた条件がそろっての事であった。
今回のまとめ
✅経済が発展する条件を満たした結果、台湾は10年目に経済的独立を果たした。
✅輸出品は主に砂糖、茶、米、そして石炭や樟脳だった。
✅昔の5千円札の人、新渡戸稲造は台湾の製糖業に貢献した。

