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台湾史入門

台湾史入門⑯日本統治時代Ⅳ-佐久間左馬太と理蕃政策-

taka
前回まで2回にわたって後藤民政長官による生物学的植民地経営を紹介してきたけど、今回はその後のお話だよ

アイン
ずっと無視されてる質問なんやけど…児玉総督は?


参考記事
台湾史入門⑮日本統治時代Ⅲ-生物学的植民地経営的経済発展-

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今日のポイント

✔理蕃政策について

第五代台湾総督 佐久間左馬太

アイン
おいコラ!児玉さんは!

児玉・後藤体制の終焉

日露戦争前夜

ロシアとの関係が悪化する中、児玉総督は帰国を命じられ対露決戦の準備をすすめていた。そして日露戦争が勃発するや満州軍総参謀長として戦地に赴いた。

アイン
えらい忙しい人やってんね

後藤新平の満州訪問

日露戦争が勃発して間もないころ、後藤は戦地にいる児玉のもとを訪れ「南満州鉄道構想」を進言した。

後藤新平
南満州鉄道の経営を通して満州の植民地化を具体化していくんやでー

日露戦争勝利と児玉総督の退任

日本勝利の翌年、児玉源太郎は台湾総督を免じられ、陸軍参謀長の任についた。これにより台湾総督の任は第五代の佐久間左馬太に引き継がれることになった。

児玉源太郎
めっちゃ出世したでー

児玉の急死と後藤の退任

佐久間総督は台湾経営に辣腕を振るう後藤に民政長官を続けてもらいたかった。一方で伊藤博文や児玉源太郎は後藤に南満州鉄道総統就任を望んだ。

理想とする台湾経営が道半ばであった事もあり後藤は大変悩んでいたが、そんな折、児玉が急死。盟友の死に際して後藤は決意し民政長官の任をおりて南満州鉄道総裁に就任したのだった。

児玉源太郎
後藤ちゃん、あとは任せたやでー

後藤新平
分かったから安心して成仏しーやー

台湾全島掌握

台湾最後の「独立地域」

かつてオランダに始まり鄭氏政権、清朝と続いた台湾の統治政権だったが、一度たりとも実効支配されなかった地域があった。それが高山族の居住地域、いわゆる生蕃や蕃地と呼ばれる地域で、統治政権が変わろうとも常に中央システムに組み込まれることなく自治区を形成していたのだった。また後述する牡丹社事件や、ローバー号事件などもこのような『一国二制度』が生んだ悲劇と言えたであろう。

taka
高山族の「生蕃」と平埔族の「熟蕃」に関しては以下の記事を参考にしてね

参考記事
台湾史入門⑦清朝時代Ⅲ‐台湾開拓に伴う諸問題‐

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前期理蕃政策

その最後の独立地域を掌握すべく始まったのが理蕃政策だった。

そもそも理蕃政策とは?

前記のとおり生蕃と呼ばれる原住民居住区は一度たりとも中央システムに組み込まれることがなかった。そして理蕃政策とはその原住民居住区を日本植民地行政に組み込む事をあらわす総称で、実際の政策内容は時代によって変化していった

以前の理蕃政策

佐久間総督以前の理蕃政策を一言であらわすと「刺激をあたえない事」に尽きる。初期の総督府にとって最も重要な課題は平地の制定であり、山地に割ける軍事費も人員もいなかった事が主な理由だった。

また居住区は険しい山中だったことに加えて、原住民は屈強な人間が多かったのもあり、総督府はとにかく彼らとの接触を避けたのだった。

児玉総督による理蕃政策

積極的な理蕃政策に舵を切ったのは児玉総督時代からだった。台湾の山は樟脳を始めとする資源の宝庫で、それを採取しようとすると自ずと居住している原住民と接触をしてしまうのが原因だった

佐久間総督による理蕃政策

理蕃政策が消極的なものから積極的なものに転換したのは前任の児玉総督時代からだったが、かつて参謀長として牡丹社事件の際に従軍したこともある佐久間総督の時代になるとさらに積極的なものへと転換していった。

参考記事
台湾史入門⑩清朝時代Ⅵ-漂流の民と化外の民-

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その佐久間総督の理蕃政策とは一言であらわすと「武力による鎮圧」であった。その際に重要となったのが隘勇線の設置だった。

隘勇線の設置

隘勇線は清朝時代に原住民居住区と漢人居住区を分ける為にひかれた土牛紅線に起源を発する。

taka
これも以前の記事で紹介したから、復習をかねて読んでね

参考記事
台湾史入門⑤清朝時代Ⅰ‐超消極的台湾経営‐

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そしてこの時期に作られた隘勇線とは単なる区分けの線ではなく、場所によっては高圧電流や有刺鉄線、地雷、砲台なども設置されたいわゆる軍事的防衛線であり、付近には軍隊を配備して警備にあたらせていた

木柵と鉄線で作られた隘勇線を警備している様子
出典:臺灣記憶展覽

そして佐久間の頃になると、この隘勇線を台湾全島に約470キロ設置したうえで更にその範囲を徐々に狭くしていった。

アイン
なんで?

taka
そうすることで原住民の居住区を狭く、しかもより険しいところへ追い詰めていったんだよ

更に塩などの物資も滞らせた。いわゆる戦国時代などに見られる兵糧攻めの状態に追い込まれた原住民の多くは投降し帰順することとなった。

そして投降した原住民の銃器を押収したのち、その地区からは軍隊を撤収させ今度は警察を配備した。このように徐々に原住民の居住区を侵攻していったのだった。

台中地区に張り巡らせられた隘勇線
出典:臺中學資料庫

 

理蕃警察機構の形成

こうして武力による理蕃政策が進められていった。そしてそれを実現していったのが新たに設けられた蕃務本署であった。

蕃務本署とは?

以前は総督府警察本署内の理蕃を担当していた部署が独立して出来た機構。蕃務本署以外にも蕃地(原住民居住区)を抱える各地方庁には蕃務課が置かれた。

もともと蕃地は樟脳の原料の確保のために総督府殖産部が管轄していたのだが、それを蕃務本署が一元化して担う事により効率化を求めたのだった。

こうして蕃地は「特別行政区域」として平地とは切り分けられ、特有の警察法令によって厳しく管理された。また配置された警察官の数も多く、住民1000人あたりの巡査数は最盛期では平地の20倍に及ぶほどであったのだ

アイン
なんか嫌な感じやね

taka
それだけ原住民を恐れていたとも言えるだろうね

蕃務本署が担う事業は広大な範囲におよび、蕃地への警察官の配置及び警備や討伐、蕃地の開発以外にも調査や測量、後述する教化事業などもあった。

 

教化事業

主な教化事業としては帰順した蕃地に設けた「蕃童教育所」などがあった。これは平地の児童を対象とした公学校とは別体系にあたり、教員は巡査が担った

アイン
警察官が先生やるん?

taka
なかには立派な先生もいたけど、問題もあったみたいだよ。それと教員をする巡査は語学力も求められたから大変だっただろうね

この蕃童教育所では当初、主な教育目標を原住民の子供たちの風俗習慣の日本化としていたので、勉強は二の次になることもあった。

また蕃童教育所以外にも職業紹介や衛生面の改善指導なども行なっていた。

こうしたアメとムチ、というには苛烈な武力鎮圧により1915年、つまり台湾を統治してから20年たった頃には、ほぼ全ての蕃地を平定したのであった。

アイン
どこにアメがあるねん

まとめ

こうして台湾に残る最後の独立地域だった原住民居住区も、理蕃政策によって中央のシステムに組み込まれていった。奇しくも前期理蕃政策が一段落した1915年、台湾南部では漢人による最大で最後の武力抵抗が発生した。それは隣の大国で起きた激震がもたらした余波でもあった。

今日のまとめポイント

✔理蕃政策によって原住民居住区(蕃地)が総督府のシステムに組み込まれた。
✔第五代総督の時代、理蕃政策は積極的なものに転換された。
✔原住民居住区は特別行政区域に分類され、強固な理蕃警察機構により管理された

taka
1915年に「ほぼ」平定されてからも抵抗を続ける原住民はいたんだよ。一番最後まで抵抗したのは高雄州旗山郡のブヌン旗タマホ社で、1933年に帰順したよ。

アイン
最後までがんばったんやね

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