後藤長官時代の保甲制度により平地が安定し、佐久間総督時代の理蕃政策により山地が平定し、これで全島に(統治者にとって都合の良い)平和が訪れたかのように見えた台湾だったが、佐久間総督の任期後半あたりから、平地で武力抵抗が増え始めたのだった。

-
-
台湾史入門⑭日本統治時代Ⅱ-生物学的植民地経営-
続きを見る
-
-
台湾史入門⑯日本統治時代Ⅳ-佐久間左馬太と理蕃政策-
続きを見る
今回のポイント
✅この時期になって武力抵抗が増えた理由
✅最後にして最大の漢人による武力抵抗「西来庵事件」について。

さまざまな抵抗
増え始めた武力抵抗
蕃地の平定にむけ武力鎮圧をしていた頃、平地では武力抵抗が頻発し始めていた。後藤長官の頃に減り始めていた武力抵抗が増えた理由は主に以下の二つだった。
武力抵抗が起きた理由
①日本企業による独占
②国際情勢
①日本企業による独占
総督府は多くの日本企業を台湾に誘致したが、その際に樟脳を独占させたり、無主の林野を払い下げたりした。こうした政策は台湾全体の経済力を底上げすることになったが、同時に台湾人の経済を圧迫もした。
こうしてたまった不満が爆発する形で起こった武力抵抗には北埔(ほくほ)事件や林杞埔(りんきほ)事件などがあった。
②国際情勢
次の理由は当時の国際情勢を受けてのものだった。2つあるのだが、この項ではそのうちの1つ、中華民国誕生の影響を受けたものを紹介したい。

1911年、中国大陸で辛亥革命が起き、その影響が台湾にまで波及したのだった。北部の苗栗や新竹、中部の台中や南部の台南で起きたこの一連の武装蜂起(未遂も含む)は、それぞれ苗栗事件、関帝廟事件、東勢角事件、大甲大湖事件、南投事件という名称があるものの、全て苗栗で一括審理されたことから、まとめて苗栗事件と呼ばれている。

最後にして最大の武力抵抗、西来庵事件
この西来庵事件は、台湾統治確立後の漢人による武力抵抗としては最大のものだった。先ずはその背景から紹介したい。
背景①国際情勢
この西来庵事件は前項で紹介した辛亥革命の影響はもとより、第一次世界大戦を背景にしたものでもあった。というのも当時日本はドイツと交戦していて(青島の戦い)、そのためか一部台湾人の間に「ドイツから多数の飛行機と中国からは10万の革命党員が日本と戦うために台湾へやってくる」という流言が飛び交い始めたのだった。

背景②貧窮にあえいだ首謀者、余清芳
上記のデマをながしたのは首謀者の余清芳だった。もともと台南で警察の職にあった余清芳は詐欺事件をおこし免職。その後、役所で書記をしていたがこれも免職。保険会社で営業員をしていたが責任者である日本人の逝去にともない免職。更には酒の販売業を起こしたが営業不振で倒産してしまった。

背景③宗教
もともと警察を免職し保険販売員になる間に、民間信仰の廟に出入りし、その布教活動中に信徒に反日を唱え共に抗日団体に参加して捕まったこともある余清芳にとって、「抗日」と「宗教」は密接な関係だったのだ。
そして西来庵に出入りしていた頃、「自分は五福王爺のご神託を受け台湾人の皇帝になった」と信者を扇動。他にも以下のように吹聴して信者を煽っていったのだった。
●中国大陸から大多数の援軍が来る
●西来庵の信徒になり寄付金を出せば敵の銃弾は当たらない
●時が来れば玉帝上皇が毒雨を降らし日本軍と蜂起に参加しない者を殲滅する
●山中にある宝剣を抜けば日本軍と非協力的な信徒は全滅する


出典:風傳媒

出典:新紀元
事件発生
こうして余清芳は「大明慈悲国を建国する」という声のもと武装蜂起を企てた。それが露見し官憲が拠点である西来庵に踏み込んだのだが、すでに山中に逃げ込みもぬけの殻だった。そして派出所や駐在所が襲われ日本人、台湾人問わず警察やその家族74名が殺害されたのだった。また余清芳は山中を逃亡しながら協力者を増やしていき、その数は最終的には1000名を超えていた。
警察隊は余清芳が噍吧哖(タパニー)に向かったとの情報を得て急行し、陸軍もそれを追った。というのもそこには製糖工場があり、200人以上の日本人が住んでいたからだ。
こうして噍吧哖にて警察隊と余清芳軍とが衝突。その後陸軍部隊も到着したため、戦いはあっという間に終わり、余清芳軍は散り散りになり逃走したのだった。

その後
散り散りに逃走した余清芳軍だったが保甲制度が効力を発揮し、次々と住人達に捕らえられていった。結果として事件に関与し逮捕検挙された者の総数は1957人に達し、そのうち866人が死刑判決を受けたが、大正天皇即位の恩赦として65人を除いて減刑された。

出典:ウィキペディア
事件の影響
1000余名の協力者のうち90%は農民だった。そしてここが重要なのだが彼らの多くには反日思想はなく、そこにあったのはただ日々の暮らしの苦しさと信仰心だった。台湾の民間宗教を把握する必要性を知った総督府は事件後、各地で宗教調査を実施し各寺廟の沿革や祭祀などを調べていったのだった。

-
-
台湾史入門⑮日本統治時代Ⅲ-生物学的植民地経営的経済発展-
続きを見る
まとめ
理蕃政策によって最後の聖域である原住民居住区の平定にめどが立った同じ年に、奇しくも発生した台湾最大の武力抵抗である西来庵事件。
時はさかのぼり1907年春、後に台湾の政治運動のキーパーソンになる林献堂が日本に旅行中、辛亥革命後、中華民国の指導者の一人となった梁啓超に会い教えを乞うた。
その際に梁啓超がいった事を要約すると以下の2点である。
①今の中国に台湾を助ける力はない
②これからは政治力で戦うべきだ
梁啓超には先見の明があった。西来庵以降、大規模な武力抵抗はなくなり、その後は政治力によって取って代わられていったのだった。
そしてその風は日本から吹いてきた。
今回のまとめ
✅辛亥革命の影響で台湾でも武力抵抗が増えていった。
✅その背景には経済的困窮も少なからずあった。
✅西来庵事件以降、総督府は民間宗教について詳しく調査するようになった。
