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台湾史入門

台湾史入門⑱日本統治時代Ⅵ-台湾人エリートの誕生-

taka
台湾で最後の自治区の解体と大規模武力抵抗が起きた頃、世界を揺るがす大きな戦争が起きたんだよ。今回はその辺りのお話
アイン
自治区解体と大規模武力抵抗に関しては以下の記事で復習するんやでー
参考記事
台湾史入門⑯日本統治時代Ⅳ-佐久間左馬太と理蕃政策-

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参考記事
台湾史入門⑰日本統治時代Ⅴ-西来庵事件-

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今回のポイント

✅第一次大戦と大正デモクラシーの影響
✅植民地特殊経営から内地延長主義へ
✅教育の向上と台湾人エリート層の誕生

 

 

二つの大きな波

理蕃政策や西来庵事件と前後して世界は大きく揺れていた。そしてその波が台湾へも伝わってくるのだが、先ずは二つの大きな波について紹介したい。

第一次世界大戦の衝撃

第一次世界大戦が「台湾を内在する」日本に与えた衝撃は大きかった。以下はそれを要約したものだ。

ポイント

①大戦による特需景気
②民族自決の原則

①については後述するので先ずは②を。ロシア革命でレーニンが第一次世界大戦の交戦国に「平和についての布告」を行なった際、併せて「民族自決」の原則を声明した。

もともと第一次世界大戦と前後してヨーロッパでは独立の機運が高まっていたことに加え、戦後世界の主導権をソビエトに奪われることを恐れたアメリカのウィルソン大統領は、大戦後の国際社会のあり方として議会にて「14ヵ条の原則」を発表した

そして休戦後のパリ講和条約に於いても14ヵ条の原則は講和の原則として取り扱われたのだった。

アイン
14ヵ条の原則って?
taka
「独立をできるだけ支持しようねー」って事だよ

 

こうして国際社会では従来の帝国主義を否定する風潮が高まり始めたのだが、これに焦りを覚えたのが遅れてきた帝国である日本だった。民族自決を認めることは、ようやく手に入れた植民地である台湾を放棄するに等しいからだ。

 

原敬内閣誕生と内地延長主義への転換

原内閣の誕生

ちょうどその頃、日本では原内閣が誕生していた。それは明治維新後に続いていた藩閥政治と官僚政治に終わりを告げる出来事だったのだ。

 

文官の総督就任と内地延長主義への転換

原内閣誕生により政党政治を歩み始めた日本は、台湾総督の人事にも影響を与えた。1919年に田健次郎が初の文官総督となったのだ。

これに平行する形で台湾の経営方針も従来の植民地特殊経営(あるいは後藤長官の生物学的植民地経営)から内地延長主義へと転換していった。

もともと原敬は日本が台湾を統治していた頃より内地延長主義を唱えていたのだが、それは即ち急進的な同化政策でもあった。原敬内閣発足以降、日本政府と台湾総督府がとったのは、完全な内地延長主義(=急進的な同化政策)ではなく、もう少しゆるやかな「漸進的な同化政策」だったのだが、いずれにせよ文官による内地延長主義をとった事で、国際社会に広がりつつある民族自決の原則とぶつかる事は避けられた形となったのだ

アイン
どういう事?
taka
台湾人を別民族としている限りでは民族自決の問題が避けられなくなるけど、同化、つまり日本人と同じとしてしまうと民族自決は適用されなくなるって事だよ

参考記事
台湾史入門⑬日本統治時代Ⅰ-植民地政策の3つの段階-

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アイン
経営方針の転換に関しては上記の記事も読むんやでー

 

同化政策のはざまにあった差別

「漸進的な同化政策」と上で述べたが、異なる者から同じ者への転換の途中には当然のことながら差別が生じていたのだった。

アイン
なんか勝手な話やね

経済的差別

日本企業の進出

前回、前前回の記事でも紹介したとおり、貨幣を統一し台湾銀行を設置した事により多くの日本企業が台湾に進出してきた。更に総督府は台湾人だけで会社を興すのを禁じ、それら日本企業の独占的優勢を支えたのだった。

この政策によってほとんどの台湾人は無産階級の安価な労働の供給者になっていったのだった。

 

待遇の違い

また企業のみならず個人に対しても差別待遇はあった。例えば公共機関に勤める台湾人の数は少なく、ほとんどは末端の職員だった事に加えて、仮に日本人と同じ等級だったとしても報酬は低かった。

taka
職種によって違ったけど、台湾人の給料はだいたい日本人の50%から70%ぐらいだったんだよ

 

教育機会の差別

統治初期の初等教育

総督府は統治や建設上の必要から初等教育を重視していた。台湾領有の翌年には台北に国語学校を設立し、また各地に国語伝習所を開いた。

国語学校は教員養成の師範部(のちの師範学校)と中等教育の国語部の二部に分かれ、国語伝習所は台湾人児童の初等教育機関である公学校になったのだが、統治初期のころは隔離政策が採られていて在台の日本人児童が義務教育として小学校で勉強し、また中学校へ進学できたのに対して、公学校は有料の上、中学校には進学できなかった

台湾領有から4年たった1899年には医療職養成のための台湾医学校が設立され、その後は各地で職業学校も開設されたが、日本本土の教育体系には組み込まれていなかったため、本土の上級学校へは進学できなかった。

 

当時の台南師範学校の様子。前身は国語学校の台南分校だった。
出典:數位典藏blog

台湾人エリート層の誕生

変わりゆく台湾教育

しかし1915年になり地元士紳の寄付や訴えを受けた総督府は初の台湾人向けの中学校である台中中学校(今の台中一中)を設立した。

設立当初の台中中学校
出典:隨意窩
taka
現在の台中一中付近は「一中街」といって若者に人気のスポットになっているよ。雰囲気としては少し原宿に似てるかも

 

日台共学へ

その後、内地延長主義に基づいて新しい台湾教育令を公布し、中学校以上での日台共学が実現した。初等教育においても日本語の常用者は小学校に入学できるようになった(非常用者は公学校へ進学)

 

高等教育の確立

1919年以降になると医学校を医学専門学校へ、国語学校を師範学校へと改制し、他にも農林や商業、工業などの専門学校を次々と開設して技術者の育成を進めた。更には台北高等学校や台北帝国大学(いまの台湾大学)も設立し、これによって台湾人も高等教育を受けることが可能になった

taka
教育を重視した植民地経営は当時としては異例の事だったんだよ

 

急増する台湾人留学生

そうは言っても人口に比べると高等教育機関は充実しているとは言えず、まだまだ狭き門だった。状況が一変するのは第一次世界大戦に入ってからのことだった。

大戦による特需景気の波は日本資本が大量に入る台湾にも波及した。好景気の波により上記のように国内の教育機関が充実していった事に加え、日本に留学する台湾人も急増していったのだった

こうして生まれた台湾人エリート層が、当時日本で火が付いた大正デモクラシーの熱を受け、従来の武力闘争をあらため政治力による抵抗を始めたのは次の回にて詳しく紹介したい。

今回のまとめ

✅内地延長主義と特需景気が台湾の教育を充実させた。
✅第一次世界大戦による好景気は台湾人留学生を急増させた。

taka
教育熱の向上には「同化会」も大きく寄与しているけど、それは次に紹介するよ
アイン
次の回も見たってやー

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