台湾を統治して20年ほどが経ち、その経営方針も植民地特殊統治から内地延長主義へと変わっていった頃、台湾人たちの統治政権への抵抗手段にも変化が見られ始めた。今回はそれについて紹介したい。
今回のポイント
✅社会を変えるための条件とは
✅4人のキーパーソンが変えた抵抗の方法
社会を変える条件と3人の台湾人エリート
社会を変える条件
先ずは国を変える為の条件を2つ紹介したい
条件①教育水準
国家という大きな枠組みを変えていくには、それなりの知識が必要になってくる。これを逆手にとった例を2つ挙げてみよう。1つは中華人共和国で、もう1つはカンボジアだ。この二ヵ国とも教師を始めとする知識階級を粛清したのは有名な話だ。

逆に言うと教育水準の高さというのは国家を変えていく大きな力になるのだ。
条件②情報発信
いくら教育水準が向上しても情報発信する人がいなければ国が変わる機会は訪れない。最近だとSNSがきっかけでアラブの春と呼ばれる大規模反政府デモが起こったのは記憶に新しいだろう。また逆に独裁国家などでは情報規制の徹底をおこなっている。もちろん理由は民衆にデモを起こさせない為だ。
社会を変える条件
以上をふまえた上で、社会を変える為の条件を以下のような公式にした。
社会を変える条件
教育水準×情報発信
次に台湾を変えようとしたキーパーソンについて紹介したい。
4人のキーパーソン




自己紹介も終わったところで、この4人について少し詳しく紹介しよう。
林献堂(林獻堂)

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名家である霧峰林家に生まれ、7歳の頃から自宅に設けられた私塾にて漢学の手ほどきを受ける。ちなみに霧峰林家の初代である林石は林爽文の乱に参加した。また第五世代である林文察は大変天国の乱や戴潮春の乱では清朝側につき大活躍した結果、台湾を含む福建省での樟脳の販売の独占権を獲得するなどし、一躍台湾中部の最大の勢力をもつ家族となった。

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出典:DC的享樂主張


蔡培火

雲林の北港生まれ。幼少の頃より兄に漢文を習う。また公学校に通っていた頃には同じく兄よりローマ字を習う。総督府国語学校の師範部を卒業後は高雄にある公学校で教職に就く。

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蔣渭水

宜蘭生まれ。父親が城隍廟で占いをして生計を立てていたことから台湾の民間宗教に子供のころから慣れ親しむ。また幼少のころは童乩(タンキー)をしていた事もある。
童乩とは?
いわゆるシャーマンで、神や霊と人間との間のコミュニケーションを手助けする意外にも、道教の儀式や時には治療なども行う。瘟疫神である王爺の廟に多い。



出典:道教之音
17歳で宜蘭公学校に入学。そして20歳の頃に台湾総督府医学校に入学し、卒業後は台北に病院を開く。

ちなみに現在、台北と宜蘭を結ぶ高速道路は「蔣渭水高速公路」という名称になっている。


林呈禄

総督府国語学校の卒業後、銀行に勤める。その後は法曹界に転職し、台北地方院にて務めるも今度は明治大学法学部に留学し卒業後は短いながらも中国湖南省立政治研究所にて教授になる。日本への帰国後は出版業界に携わり最後は台湾における推理小説普及の基礎を築いた多才な男。

武力から政治へ。かわりゆく抵抗手段
では4人のキーパーソンを通して、台湾の抵抗手段がどのように変わっていったかを紹介しよう。
台湾同化会の結成
板垣退助の訪台
前々回の記事でも紹介したとおり、かつて林献堂は日本で梁啓超に教えを請うた。その際に梁啓超から示唆を受け板垣退助を訪ねた事により訪台が実現したのだった。
板垣は台湾民衆の前で彼の持論である『東亜民族の大同団結』を基軸とした台湾論を展開、これは端的に言えば「台湾人の同化=平等」を掲げたものだった。
台湾同化会の発足と解散
帰国後、台湾人と日本人との間に差別がある事を知った板垣は『台湾同化会』を提唱、「日本人と同等の権利」という考えに魅了された林献堂が中心となり会が発足した。
しかし総督府側の狙いが「同化」であった事に対し、参加した台湾人らの狙いは「平等の権利」であった事から、総督府は会に猛烈な弾圧を与え、わずか二か月で解散させたのだった。
台湾同化会にて林献堂と板垣退助の通訳を務めていた蔡焙火は、政治運動の参加を咎められ公学校の教師の職を失った。そして林献堂の援助を受け、日本へ留学したのだったが、これは台湾人による日本の大学・専門学校入学の第一号だったのだ。


台湾同化会の影響
わずか二か月の活動期間だったが、台湾同化会がその後の台湾に与えた影響は莫大だった。前述の通り蔡焙火が東京へ留学した事により、その後増えてきた台湾人留学生と林献堂が接点を持つようになった事、総督府が会の解散と引き換えに台湾人を対象とした台中中学を創設した事、そしてなにより大きかったのが、台湾人に教育熱をもたらした事だった。
この時生まれた熱と戦争特需がもたらした好景気により台湾人留学生が激増した結果、政治運動の舞台は法律上でそれがある程度は保障されている日本へと移っていったのだった。
啓発会と新民会
東京に留学していた蔡焙火は六三法の撤廃を求め運動していた。そして当時増え始めていた台湾人留学生を中心に啓発会を発足させ思想的な交流活動を行うようになった。
六三法とは?
「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」という。台湾総督に対して台湾内における立法権を委任したもので、これにより台湾総督は統治地域台湾において行政、立法、司法の三権を握っていた。つまり六三法の特徴は一言で言えば台湾総督への権力集中だった。


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こうして発足した啓発会だったが、その後は発展的に解散、林献堂を会長に「新民会」が新たに発足した。


『台湾青年』の発行
新民会は蔡焙火を発行人として、台湾史上初、台湾人自らが発行する政論雑誌である『台湾青年』を創刊した。



出典:ウィキペディア
この『台湾青年』はその後、月刊『台湾』に名を改め、更には漢文で書かれた『台湾民報』として刊行されるようになった。

出典:ウィキペディア
これが台湾社会に与えた影響は甚大だった。思い出してほしいのが冒頭に紹介した公式だ。
社会を変える条件
教育水準×情報発信
台湾島内に次々と創設される学校、そして更なる勉学の機会を求めてやってくる台湾人留学生の急増と、教育水準が上がっていった事に加え、一連の雑誌刊行により情報発信という条件もそろったことで、抵抗の方法が武力から政治に取って代わったのだった。そしてこうした一連の流れが日本からやってきたのには理由がある。
政治運動が日本から来た理由
①総督府の目が光る台湾では政治運動が難しかったから
②教育の機会を求めた多くのエリート層が日本に留学していたから
③大正デモクラシーの影響
こうして日本から台湾へ逆輸入する形で台湾の政治的抵抗が広がっていったのだった。
台湾議会設置請願運動
六三法を撤廃を求めて運動していた新民会だったが、明治大学で法律を勉強していた林呈禄は以下のように考えた。
六三法撤廃=日本人との完全な同化
これだと台湾人としてのアイデンティティーを自ら否定することに繋がりかねない。そこで至った結論が「台湾議会」を設置し高度な自治を求めるというものだった。

こうして始まったのが「台湾議会設置請願運動」で、1921年から1934年の14年間に計15回の請願が展開されたが、日本政府および総督府は台湾の独立を警戒し、これを拒否し続けたので実現には至らなかった。


出典:鳴人堂
台湾文化協会の創立
第一回の請願運動が始まった同じ年、蔣渭水の奔走により台北台湾文化協会が創立された。「台湾文化の発達を助長する」という目的は掲げられているものの、実質的には新民会の台湾本部のようなもので、中心人物を見ても総理に林献堂、専務理事に蔣渭水、理事に蔡培火とおなじみの顔ぶれだった。

とは言うものの「台湾文化の発達」という目的そのものには嘘偽りはなく、文化協会は講演、新聞や雑誌の閲覧を始め、映画上映など文化活動を精力的に行っていったのだった。

出典:想想論壇
台湾文化協会の分裂とその後
メンバーが1000人を超えていた文化協会だったが、当初から足並みがそれってはおらず、その後運動方針を巡って分裂し、実権を左派が握ったため林献堂や蔡培火、蔣渭水らは相次ぎ退会し台湾民衆党という初めて台湾人により組織された合法的な政党を結成した。
また文化協会が進めた一連の活動により、左派団体も発展していき、1928年には日本共産党の支部である台湾共産党が発足した。

まとめ
こうして1914年ぐらいを境に総督府への抵抗は武力によるものから政治運動によるものへと変化していった。それは台湾の教育水準の高まりに加え、民族自決や辛亥革命、そして大正デモクラシーなどの国際的な風潮を受けてのものだった。
なお蔣渭水は治安警察法違反の容疑で逮捕され、その戦いは舞台を法廷へと移したのだが、これは裏を返せば日本が法治国家である故のものであった。
蔣渭水の収監以降も多くの台湾人エリートたちが政治運動で入獄していったのだが、これも法治国家の市民としての意識が培われた結果であった。そしてその意識が第二次世界大戦後に大きな悲劇を生む事になったのだが、それはまた別の機会に紹介したい。
今回のまとめ
✅教育が普及し始めた結果、多くの台湾人エリート層を生んだ。
✅日本に留学していた台湾人エリートを中心に政治運動が広がっていった。
✅日本で始まった政治運動の波は台湾に逆輸入される形で広がっていった。

