内地延長主義がとられた統治時代中期の頃、教育熱や政治熱が高まっていったのは前回までの記事のとおり。そしてそれらは経済という基盤があっての事だった。今回はある有名な日本人の話を中心に、台湾の農業の発展について紹介したい。

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今回のポイント
✅統治時代中期の農業発展。
✅台湾で知らない人がいない有名日本人。
台湾農業の発展
中期までの台湾農業
清朝時代の台湾三大商品作物といえば砂糖、樟脳、茶だった。その中での樟脳と茶の生産地が北部に集中していたことから、清朝末期には経済の中心地が南部より北部へと移り変わっていったのは以前も紹介したとおりだ。

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日本による台湾統治初期にも引き続き三大商品作物の拡大がなされ、高雄市橋頭には台湾初の新式製糖工場である橋仔頭工場が建設された。

出典:臺灣記憶



増え始める米の生産
中期になると三大商品作物を猛追する農作物が現れた。それは日本人には欠かせないもの、米だった。
元々台湾在来の米はインディカ米で日本人には馴染みのないものだったが、磯永吉らが品種改良に着手。20年ほどかかった1922年に日本米に味の近い蓬莱米の開発に成功した。

出典:ウィキペディア
「台湾で一番有名な日本人」八田與一と嘉南大圳
米の生産になくてはならないものが水源だ。磯永吉がソフトの面から米を増産させたのに対し、ハードの面からこれにあたったのが八田与一(常用漢字使用。以下「与一」に統一)だ。この人物の名を知らない日本人の方が多いと思うが、台湾に於いては知らない人の方が少ない日本人なのだ。
以下、八田が台湾に残した功績について紹介したい。

出典:台灣基督長老教會
上下水道の整備
東京帝国大学で土木を学んだ八田は卒業後、台湾総督府内務局土木課に技師として就職した。当時の長官であり医師出身の後藤の肝いりで、八田は上下水道の整備に務めたのだった。


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八田が受けた2つのミッション
その後、灌漑担当に異動した八田は、水不足に悩む桃園台地の灌漑施設の担当となり「桃園埤圳」と名付けられた施設の工事を無事に成功させたのだった。
そして八田が受けた次の指令は水力発電用のダムと米の増産用灌漑ダムの適地を探す事だった。全島を調査した結果、水力発電のダムは日月譚に作る事が決まった。
残るは米の増産用灌漑ダムだった。そして八田が選んだのが当時は不毛の大地であった嘉南平原で、ここに大規模な灌漑施設「嘉南大圳」を作る事になったのだった。

出典:ウィキペディア
嘉南大圳計画
この嘉南大圳の建設において八田がぶち上げた計画がとんでもなかった。灌漑面積が桃園埤圳の7倍に相当する約15万ヘクタールで、その水源は中部を流れる濁水渓という河川以外にも、総貯水容量約1億5000万トン、堤長は1273mという世界最大のダムを建設するというものだった。
嘉南大圳建設開始
こうして世界最大の烏山頭ダムを有する嘉南大圳の建設が始まった。工事にあたり総督府は管理監督し、実際の工事は「公共埤圳嘉南大圳組合」という民間の組合が行う事になったので八田は総督府から組合に出向する形をとったのだった。
このとんでもないプロジェクトを実行するにあたり、八田は作業員の福利厚生を充実させるため宿舎、学校、病院、更には購買所やプール、テニスコートなども建設し、まずは烏山頭ダムの建設に取り掛かった。
度重なる苦難
ダム建設が始まって2年がたった頃、石油ガスに引火する爆発事故が起き50数名の作業員が死亡した。
そしてその事故の半年後、関東大震災が発生し、工事の補助金が大幅に減額されたのだった。予算の削減にともない作業員の半数を解雇しなければならなかったのだが、八田はなんと有能な者から先に解雇したのだった。これは「有能な人間は再就職先がすぐに見つかるが、そうでない人間は路頭に迷う」という考えがあってのことであった。また八田は解雇した者の再雇用先を探し奔走した。

工事の完成とその後
度重なる苦難を乗り越え、着工から10年、ついに嘉南大圳は完成した。ダムを放水し全ての水路に水が行きわたるまで3日を要するほどの大規模な範囲に渡る灌漑施設が誕生したのだった。
その後、八田は総督府に復帰し台湾の産業計画の策定などに従事したたのだが、1942年、太平洋戦争により死亡した。また夫の知らせを聞いた妻の外代樹は、夫が心血注いで完成さえた烏山頭ダムに身を投げたのだった。

出典:tonboeye



出典:西拉雅國家風景區管理處



農業の発展
増える米の生産量
蓬莱米の開発と嘉南大圳の完成は南部を大規模な穀倉地帯へと変貌させた。嘉南大圳完成前の1929年の段階では水田が34.5%だったのに対して畑は65.5%あったのが、完成して8年目の1937年では水田が70.3%、畑が29.7%と大逆転している。
米糖相克の問題
米の生産量が増えたことにより問題になったのが、さとうきびの買収コストが上昇した事だった。これを米糖相克の問題というのだが、少し分かりにくいので説明をしたい。
当時、製糖業が日本企業に独占されていたというのは以前の記事でも紹介したとおりだ。
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一方で米生産は製糖業と違い日本企業による独占はされていなかった上、蓬莱米が日本で受け入れられるようになったので米を生産するほうが利益が得やすくなった。
そうなると農家はこぞって米を生産するようになり、さとうきびを生産する農家は減り続け、製糖業者は原材料の買い付けに苦労するようになった。
こうなると需要と供給の関係から、さとうきびの値段が跳ね上がることになり、製糖業が立ち行かなくなる。当時、砂糖は台湾が誇る主要経済作物であり、原材料の高騰ならびに確保困難は喫緊の課題となった。
そこで取られたのが2つの施策だった。1つは「米価比準法」といって、さとうきびの買い付け価格を米の価格と連動させることにしたのだった。そしてもう1つは「三年輸作制度」といい、水を米、さとうきび、雑穀や野菜の3つの区域にわけて供給する方法で、3年で1巡する仕組みだった。(もっともこれは水資源の確保の意味もあった)
これら2つの施策により作り手の作物の選択を統制し、農作物全体の生産量を上げていったのだった。
農業学校の設置
米の品種改良やインフラ整備の他、農業人材育成にも力を入れ、嘉義農林学校などの農業学校を設置したのだった。この嘉義農林学校(通称:嘉農)は甲子園に出場した事もあり、映画にもなった学校だ。

出典:台北ナビ

まとめ
2人の日本人により統治時代中期の農業は飛躍的に向上し、台湾は農作物の輸出国となっていった蓬莱米は今でも台湾人に愛され、八田与一は今も地元の人に感謝され続ける日本では無名な台湾の有名人なのだ。
今回のまとめ
✅蓬莱米の開発により台湾米は日本に輸出されるようになった。
✅嘉南大圳の完成により、台湾南部は広大な穀倉地帯へと変貌を遂げた。
