政治や経済といった社会に何か変化が起き、それらが落ち着いて来るにしたがって次に訪れる変化とは何だろうか。答えは生活と文化だ。前回までは政治と経済の変化についての話だったが、今回は日本統治時代中期の頃に訪れた生活と文化の変化について紹介したい。
今回のポイント
✅清朝時代から続く悪習。
✅生活様式の変化。
生活様式の変化
変化を知るためには元の生活様式を知る必要がある。元々台湾は約190年のあいだ清朝が統治していたので、その生活様式の多くは中国大陸からやってきたものだった。
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その中でも総督府が「台湾三大陋習」と呼んでいたものがある。それはアヘン、纏足、辮髪だった。


アヘン政策については以前の記事でも紹介したので、ここでは纏足(てんそく)と辮髪(べんぱつ)について紹介したい。
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陋習の改善
纏足
纏足とは幼児期より足に布を巻き変形させ足が大きくならないようにする習慣で、セクシャリティーの象徴であり、また女性の自由な行動を奪う事から家父長制の象徴でもあった。



出典:ウィキペディア
1905年に行なわれた第一回戸口調査によると、実に半数の女性が纏足を行なっていた。またそのうち大多数は閩南人で、客家人にはほとんど見られなかった。これは客家人が女性が働くことを奨励していたからで、そのため客家の女性は閩南人から「大足女」と揶揄されていた。

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纏足からの解放運動は官主導ではなく民から始まった。漢方医であった黃玉階が統治初期の時代に「台北天然足会」を発足させたのだった。前衛的な試みであった「台北天然足会」の結成が纏足からの解放にどれだけの効果を発揮できたかは分からない。それより効果があったのは総督府が保甲制度の中に纏足の禁止事項を加えたことだった。
保甲制度とは?
清朝末期に導入された制度で、10戸を1甲、10甲を1保として住民を連座制のもとに管理した。甲と保にはそれぞれ甲長と保正という役職が置かれた。日本統治時代にはこれを警察の管轄下におき連座制、相互監視、相互密告を強化し治安維持ならびに住民への伝達や伝染病の予防などを行なった。
また総督府は纏足からの解放運動には女性の教育向上が不可欠と考え、公学校で使用する教科書などで纏足の不利益などを紹介し、意識向上に努めた。

辮髪
辮髪とは髪の一部を伸ばして三つ編みにして他をそり上げる髪型のことで、清朝を築いた満州族の象徴でもあった。

出典:宣和堂遺事
この辮髪の廃止も先ずは民から始まった。「台北天然足会」を発足させた黃玉階が「断髪不改装会」という会を発足させ「服装は変えなくてもいいが、辮髪は不衛生だからやめよう」と呼びかけたのだった。
この後、これも纏足同様、総督府が保甲規約の中に辮髪の禁止を加えたので、しだいに見られなくなっていったのだった。

時間の変化によるレジャーの出現
時間の概念の変化
かつて台湾では時間を十二支であらわしていたが、総督府は台湾を統治して間もないころにグリニッジ標準時を基準とする現在の標準時制度を導入した。

標準時制度の普及のため駅や主要な街路では時計が設置されることとなった。

出典:自由時報

出典:隨意窩
また従来の太陰暦(農歴)を改め太陽暦を導入し、それと同時に1週7日制も導入された。
レジャーの出現
1週7日制が導入された事により休暇が生まれ、それによりレジャーが盛んになっていった。総督府もレジャー施設の建設に積極的で台中公園や台北新公園などを作った。また野球や映画、美術鑑賞などの活動も推し進めた。

そしてコーヒーやダンスといった西洋文化も、日本を通して台湾に伝わっていった。

出典:歷史科中學教師進修網
1930年代に入るとゴルフや競馬などの上流社会向けの新スポーツが見られるようになった。清朝時代の上流階級と違うのは、上記にもあるように西洋文化を好んで取り入れていったことだった。
またこの頃、台北で菊元百貨店が、そして台南ではハヤシ百貨店がオープンし、現地の日本人や台湾上流社会に新たな消費スタイルをもたらしたのだった。


出典:wikiwand
まとめ
日本による台湾統治にも落ち着きが見られ始めた1920年代から30年代にかけ、日本経由で西洋モダンが台湾にも広がり始めたことにより、生活様式にも変化が見られ始めた。こうして台湾は徐々に清朝の『化外の地』から変貌を遂げていったのだった。
今回のまとめ
✅清朝時代の悪習や衛生観念の改善により死亡率が下がった。
✅時間の概念が変わった事により余暇活動が生まれた。
✅西洋モダンが上流階級の新しいライフスタイルになっていった。

