

前回は生活と文化の変化について紹介したが、今回は冒頭でも述べたように文芸の発展を中心に話を進めていくのだが、それは単なる生活の余裕からくる余暇の延長としてのものではなかった事を最初に述べておこう。
今回のポイント
✅文芸が発展した根幹にあったものとは。
文芸の発展
文芸、つまり文学と芸術の発展についてだが、この二つともに関係していたキーパーソンがいる。その人物とは…


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『リンケン』の大活躍に関しては上記の過去記事を参考にしていただくとして、先ずは文学と芸術、それぞれの発展ぶりをご紹介しよう。
文学
伝統文学
ここで言う伝統文学とは漢文学の事で、日本統治時代初期、台湾では各地の書房で漢詩が継承され続けていた。また詩社と呼ばれる詩人が集う会も各地で発足していたが、なかでも霧峰林家で発足した櫟社は三大詩社の中でも最も有名だった。

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櫟社は『リンケン』のバックアップを受け続け、その後も活動を続けたが、発足当時から政治批判色が強かったため1943年に統治当局から解散を命じられ、その歴史に幕を下ろしたのだった。言い換えれば彼らは文学の力で当局に抗おうとしていたのだった。
新文学の台頭
文学の力でもって植民地政府に抗っていたとは言え、伝統文学は一般庶民には敷居が高すぎた。そこで現れたのが口語文で書かれた新文学だった。民衆啓蒙の観点から平易な口語文の必要性を訴えた台湾人エリートたちを中心に新文学が提唱され台湾新旧文学論争を引き起こしたのだった。
特に台湾民報は新文学に紙面を提供することで全面的にバックアップを行なったのだった。

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その後、新文学は時局の影響を受け日本語で書かれたりもしたが、言語は変わっても、その批判精神には何ら揺らぎはなかった。伝統文学にせよ新文学にせよ、アプローチに多少の差はあるものの、その根底にあったのは筆の力による植民地政府への抵抗だったのだ。

芸術
芸術家を支援した2人の男
統治時代中期の特徴の一つに、従来の中国絵画から西洋画への変容があるのだが、ここではまず、彼ら芸術家をサポートした二人のスポンサーについて紹介しよう。一人は先ほども紹介した…

以前の記事でも紹介した通り、台湾文化協会の中心メンバーだった林献堂は明に暗に芸術家たちを支援していた。その中には顔水龍や郭柏川、陳澄波などの、その後有名になった芸術家たちがいた。

右から顔水龍、郭柏川、陳澄波。中心に映る杖をついた男が林獻堂
そしてもう一人は楊肇嘉。台中の清水出身の士紳で林獻堂と同じく多くの芸術家たちをスポンサードしてきたが、中でも李石樵には特別目をかけていたようだ。

出典:臺中學資料庫
ここで特筆すべきは林獻堂、楊肇嘉共に民族運動家であった事で、彼ら二人のパトロンが当時の芸術家にもたらしたものには明示的なものと暗示的なものの2つがある。明示的なもの、つまりわかりやすいものとしては金銭などでの支援であり、もう一つの暗示的なものとは思想の事だ。つまり当時の芸術家たちは大なり小なり、そういった思想的な影響を受けていたのだった。
帝展入賞
さて、個々の芸術家や作品がどのような思想的影響を受けていたかに関しては言及をさけるが


ここでは一つのテーマにそって芸術家や作品を紹介したい。そのテーマとはタイトルにもあるとおり『帝展入賞』だ。植民地の人間として「本土」である日本の、それも最も権威ある帝展に入選する事こそが、台湾人としての意地を見せる事に繋がっていたのだ。
以下では帝展に入賞した作品を紹介しよう。
黃土水《番童吹笛》第二回帝展入選(1920)

先ずは台湾が誇る天才彫刻家、黄土水の作品から。上記作品は彼が日本留学中に作り上げた作品で初の台湾芸術家による帝展入選作品となった。黄土水と言えば次に紹介する作品が最も有名なのだが、この二つの作品を見ても分かるように郷土への強い思いが込められたものだった。
黄土水《水牛群像》

この他にも黄土水は計4回帝展に入賞している。

陳澄波《嘉義街外》第七回帝展入選(1926)

陳澄波《夏日街景》第八回帝展入選(1927)

台湾総督府の国語学校時代に石川欽一郎に師事した陳澄波はその後、東京美術学校に留学。入賞した二作品とも黄土水の作品同様、故郷への郷愁があふれている。
もっと詳しく
静岡県出身の西洋画家。台湾総督府国語学校、臺北第一師範学校で美術教師をしていた頃、西洋の水彩技法で多くの台湾の風景を描いた。また当時、多くの優秀な台湾人画家を育て上げた。

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陳植棋《台湾風景》第九回帝展入選(1928)

廖繼春《有香蕉樹》 第九回帝展入選(1928)

1928年には上記の通り二作品が入選した。また翌年1929年の第十回帝展にも陳澄波《早春》と藍蔭鼎《街頭》が入選し、これで二年連続二作品の入選となった。この辺りから台湾芸術家たちの快進撃が始まったのだ。
第十一回から第十五回まで入選作品
第十一回(1930)
張秋海《婦人像》 、陳植棋《淡水風景》
第十ニ回(1931)
廖繼春《有椰子樹的風景》
第十四回(1933)
李石樵《林本源庭園》
第十五回(1934)
陳澄波《西湖春色》 、廖繼春《兩個小孩》、 陳進《合奏》、李石樵《畫室內》


1935年になると当時の文部大臣が美術の国家統制を強化しようとして多くの混乱と紛糾を招いた。以下はその混乱期の頃の入選作品だ。
混乱期の帝展(?)入選作品
第一回帝展改組(1936)
陳進《化妝》 、李石樵《編物》
文展(1936)
陳進《山地門之女》 、李石樵《楊肇嘉之家族》、廖繼春《窗邊》
李石樵《楊肇嘉之家族》


新文展入選作品
第ニ回(1938)
陳夏雨《裸婦》 、廖繼春《窗邊少女》、廖繼春《窗邊坐像》、陳永森《冬日》
第三回(1939)
陳夏雨《髪》 、李梅樹《紅衣》
第四回(1941)
陳進《臺灣之花》、陳永森《鹿苑》、陳夏雨《裸婦立像》
第五回(1942)
陳進《香蘭》、李石樵《閒日》



まとめ
以上見てきたとおり、1930年前後より台湾の美術会は勢いを増していった。それはもちろん台湾人の文化水準が向上したとの見方もできるが、その一方で帝国主義に対する植民地の人間としての意地や誇りがあった事も事実なのだ。いわばこれは彼ら植民地の民の『穏やかな抵抗』であり、そこには二人の民族運動家のスポンサーが大いに関与していたのだった。
今回のまとめ
✅台湾美術会の勃興には二人の民族運動家が関係していた。
✅台湾の美術家の多くは彼ら二人の影響を受け、アートの力で帝国主義に抵抗した。
こうして緩やかな抵抗が続けられていた頃、台湾中部では厳しすぎる理蕃政策に不満を募らせた原住民たちによる最後の大型蜂起が起こった。それが有名な霧社事件だったのだが、それは次の話に。
